2006年09月20日
●通説の根拠は?
筒井時代の伊賀上野城 寛永まで残っていた(伊賀タウン情報YOU)
安土桃山時代に大名筒井定次が築城した上野城の天守が、次の城主藤堂高虎が1611年(慶長16年)に新天守を築いた時に取り壊されず、寛永年間(1624~1644)まで残っていた可能性が高いことが分かった。
伊賀上野城内には筒井古城跡があり、藤堂高虎が伊賀上野城を築城した際に、廃城になったとされてきた。当然、天守も取り壊されたと考えられてきた。ところが、記事によると、藤堂藩史の『宗国史』の寛永10(1633)年8月3日に大風のため天守が倒壊したという記述が見つかった。藤堂高虎の天守は未完のまま倒壊し、再建されなかったとされていることから、倒壊した天守が筒井古城の天守では?ということになり、寛永年間の絵図にも本丸東の筒井古城に3層の天守が描かれていることから、可能性が高まったということだ。
しかし、すでによく知られた史料から、こういった新たな可能性が出てくるところに、研究の深さがある。逆に言うと、今までの通説はどういう根拠で、出てきたのだろうか。気になる。特に「絵図の3層天守をどう解釈していたのか?」ここが疑問。
Posted by 向かうところ手品師 at 2006年09月20日 23:56
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