2006年11月21日
●情報錯綜?
出石城「虎口」を確認 豊岡市出土文化財センター(日本海新聞)記事中で、出石城は1604年に小出吉英が築城とあり、さらに虎口を築いた後に石垣を改修した跡があり、防御機能を強化したとみられるとある。武家諸法度成立までの短期間に、防御強化の改修が行われたと考えられ、その目的が気になる。
兵庫県豊岡市出土文化財センター(瀬戸谷晧所長)は二十日、同市出石町内町の出石城跡で、現在の役場に当たる「居館」への通路と推定される「虎口(こぐち)」の跡を確認したと発表した。この虎口をふさぐ形で別の石垣も確認。同センターは「全国の城主が敵の侵入から城を守るために取った防御方法を知る資料となる」としている。二十四日午後一時半から現地説明会を開く。
とおもっていたら、読売新聞にこんな記事があったようだ。
出石城(兵庫県豊岡市):織豊期の石垣が400年ぶりに現れるもっと前に築かれていたということか。 もっと情報が出てこないとわからん。
出石町の豊岡市指定史跡の出石城の発掘調査を行っていた同市出土文化財管理センターは、織豊期とみられる石垣が出土したと発表した。南北方向と東西方向の二つの石垣が出土し、東西の石垣の方が新しいものとみられた。同センターは、時代背景などから秀吉時代に前野長康などの出石城主の誰かが有子山城のふもとで実務を行う陣屋のような建物の基礎部分として築いたと推定している。また、出石城の始まりが秀吉時代まで遡ることが出来、出土した石垣は有子山城に繋がるものだったと考えられた。また虎口部分も出土したが、おそらくは情勢不安定で敵の侵入に備えるためか新しい石垣でふさがれていた。
Posted by 向かうところ手品師 at 2006年11月21日 23:31
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