2007年04月05日
●交代で住むのか。
都城島津家史料から滑川屋敷絵図(宮崎日日新聞)どうも記事を読む限り、特定の家臣や領主の屋敷ではなく、交代で入っていたようだ。家臣の城下集住というと、それぞれの家臣が自前の屋敷を構えていたのが普通だが、こういうケースもあるのか。規模も大きく、絵図の内容もなかなか詳しいようなので、興味深い。代官陣屋はあったけどね。
都城市立図書館に保管されている都城島津家の史料から、領主や家臣が鹿児島城下で住んでいた滑川屋敷の絵図が見つかった。建物の配置や間取りなどが詳細に描かれていて、関係者は「屋敷の全体像が一目で分かる貴重な史料」と話している。 絵図は縦が約1・6メートル、横が約2・6メートル。各部屋の名称などのほか水路と思われる赤い線も記されている。
2007年04月04日
●途方もない作業
姫路城「石垣カルテ」完成 積み方や年代データ化(神戸新聞)
世界文化遺産・国宝姫路城で、姫路市が四年前から手掛けてきた「石垣のカルテ(台帳)」づくりが、ほぼ完了した。石垣の積み方や造られた年代、危険度などのデータを記録し、崩落の際の復旧に役立てる。調査は、外堀の内側約二百三十三ヘクタールに及び、作成したカルテは千枚以上。石垣の形状から、羽柴(豊臣)秀吉が築いた城が、江戸期に築かれた西の丸に及んでいた可能性があることも分かった。
もともとは、石垣の崩落といった危険防止のデータベースのようだが、姫路城の石垣研究にも大きなデータとなるのは間違いない。姫路城ほどの大きな規模の城で、こういったことが行われたことは、ほかの城郭での実施といった応用にも期待してしまう。それにしても、1つ1つの石垣を丹念にチェックするという作業は途方もないもので、尊敬してしまう
2007年04月03日
●彦根城・佐和山城
彦根城へいく。
盛り上がりはいまいちなんて話もあったが、結構な人出。2回目なので、目玉を中心にまわることとする。非公開の天秤櫓や西の丸三階櫓が特別公開ということで楽しみだったのだが、中で開催中のワダエミの世界の関係で、内部は撮影禁止に。せっかくの貴重な機会がもったいなかった。天守はというと、普段登り慣れていない人が多く、結構混みあって、時間がかかった。本城域から下山した後、彦根城お堀めぐりの屋形船に乗る。墓石の転用石も見られたりと、いつもと違う眺めで、なかなか面白かった。惜しいのが、自分以外の同乗者が年配者ばかりだったこと。
天守を出て、しばらくすると噂のひこにゃん登場。一応11時天守前広場に登場ということで、あわせて天守へ行ったのだが、時間まで少しあるからと売店を見ていると、いつのまにやら登場し、記念撮影会が始まる。飼い主?の女性がカメラマンをやって、次々と撮影が進む。なかなか手馴れたもので、アップと引きの2枚を撮影していく。さすがに、ツーショットの写真は撮ってもらわなかったが、ワンショット(猫なのに…)の写真をひとしきり撮った。どうも、あまりよく見えていないようで、ときどき「左にもいるよ」とか、飼い主に声をかけられていた。たしかに評判どおりのナイスキャラ。後ろ髪を引かれながらも別れて下山。というのも、堀めぐりの屋形船に乗るため。発着所についたのはいいが、12時の会は満席で、13時回にのることになり、時間つぶしに、食事をして土産物屋に入ると、「♪ひこにゃん、ひこにゃん、ひこにゃんにゃん」とご陽気な音楽が。どうやら「ひこにゃん音頭」というものらしい。すっかり、耳について離れなくなってしまった。なんだか、すっかりひこにゃんにやられてしまった。ところで、天守前広場のひこにゃんは、どこから出てきてどこに帰ったんだろうか。
堀めぐりを終えて、彦根城を後にすると、彦根駅から近江鉄道で隣の鳥居本駅へ。今度は佐和山城を目指す。彦根駅から往復という方法もあったが、「近江城郭探訪」にも紹介されていたルートを歩くことに。本丸を目指して一気に登っていくルートだけど、なかなか険しい。やっとのことで、本丸へ到着。本丸からの彦根城が眺めは良く、登った甲斐があった。本丸から下山し、彦根駅を目指す。ところが、下山路の道しるべは折れているは、途中どう考えても山道の方が立ち入り禁止になっているわで、本当に下山できるのか不安になった。無事下山すると、怪しげな天守風の建物が。さらに金閣寺風の建物に、五重塔建物と怪しさ満載。国道を挟んで写真を撮って、彦根駅を目指す。後で調べたところ、佐和山遊園というらしい。彦根駅に戻り、帰路に着く
2007年04月02日
●掛川城・小牧山城
まずは、掛川城へ行く。
戦国の館掛川という企画が開催中。去年、今年と大河ドラマで掛川が登場してくるので、それにちなんだ企画で、ほとんどが大河ドラマ関係の展示だった。城自体は2回目で、別になにか大きく変わったところが、あったわけではないので、取り立てて印象が変わったということは無し。まあ、大きな三日月堀があったが、これも武田系城郭になってしまうのかねえ。
掛川を後にして、続いて小牧山城へ。3月31日に小牧山頂上のなんちゃって天守の歴史資料館がリニューアルオープンしたということで、足を伸ばしてみた。さくら祭りの最中で、屋台も多く人も多かった。山頂のなんちゃって天守の割には、なかなかいい状態で遺構がわかる山城だった。途中発掘調査中で通行止めになっていたが、肝心の発掘調査作業が行われていなかったので、何の調査かは不明。歴史資料館で資料を購入したのだが、職員の応対があまり。。。せっかくリニューアルオープンしたのだし、もっと愛想よく出来ないものかねえ。小牧駅から小牧山まではタクシーで行ったが、帰りはうまいこと小牧駅行きのバスが来た。
でもって、今日は彦根泊。千成亭で近江牛を食べる。高いね。やっぱり。その後、お決まりの夜景撮影。一度撮影したはずなので、今回は深追いせずに、そこそこにして戻るが、結構暗いので、帰り道に迷いかける。城域から出るのに手間取った。
ホテルのロビーでひこにゃんグッズが売っていたので買ってみる。近くのお土産物屋でも買う。売り切れているようなニュースも見たんだけどな。やっぱり、ジャンジャンのニュースは適当なのか。
2007年04月01日
●深沢城
深沢城
知人と3人で深沢城へ行く。
今川、後北条、武田そして徳川と、有力な大名の支配下に置かれた波乱に満ちた城。
いわゆる武田系城郭の特徴と言われる三日月堀が特徴の城で、一の郭、二の郭、三の郭は比較的良く残っている。ただし、一の郭などは、畑となっていて、スプリンクラーも通っており、外郭事態は削られていないが、表面自体は大きく削られている様子。それにしても、あそこまで1箇所に堀が集中する構造の城というのもそうそうないように思われた。図面などを見ると、結構な規模があるような印象を持っていたが、実際に見て回ると思いのほか小ぶりの城だった。
御殿場駅で別れて、掛川で一泊。例のごとく、掛川城の夜景をとりに行ったのだが、掛川の夜は早く帰りにはすっかり店が閉まっており、結局駅前のお好み焼き屋に入ることに。まあ、掛川に着いたのが20時近かったというのもあるけど。セルフサービスの店で、初めてちゃんとしたお好み焼きを焼いたかも。時間的に遅かったから、セルフと気付いていれば、もっと簡単なもんじゃにしたのに。
新しいデジカメは、設定しだいでは結構手軽に夜景が撮れた。
宿は、格安で設備こそやや古いところもあるが、サービスなどは良く、大当たり。
2007年03月30日
●欲がない?
【湖東】彦根城の長曽根口御門を復元へ 県立大教授ら教禅寺から部材搬出(中日新聞)門などが、城下に移築されているということは良くあること。今回の場合は解体されており、部材の状態であったが、全容が判れば復元も可能だろう。 400年祭にあわせて、復元を行うための調査を行わなかったというのは、もったいないというか、欲がないというか。
かつて彦根城の外堀に建ち、今も彦根市長曽根町の浄土真宗・教禅寺に部材が現存する「長曽根口御門」。この門の復元を目指している県立大人間文化学部(彦根市八坂町)の濱崎一志教授(53)らは29日、実測調査のため、部材を寺の床下から運び出す作業に取り組んだ。 外堀には7つの門があったが明治初期に解体。このうち長曽根口御門は教禅寺の山門として移築され1931(昭和6)年まで使われていた。再解体後、先々代の住職が部材を保存していた。
2007年03月21日
●春の攻城計画
春休み中にどこか城めぐりにでもと考えているがどこにしよう。
とりあえず、1日に知人と深沢城へ行くので、その足でどこかへと。
第一候補は、今日から開幕の彦根城400年祭。うまいこと、翌日2日もしっかりと開催中。ただし、御殿場駅を17時過ぎにでるとなると、21時過ぎにつくので、移動としてはあまり好ましくない。名古屋あたりに泊まって、どこかを見て彦根へ入るのが理想。
さてどこにするか。月曜でも資料館が開いている城か、資料館などまったく関係ない山城を選ぶか。
今日は昼間でかけた用事の関係で、休日という感覚がまったくなかった。そもそも、すでに休日状態だしね。
野球観戦はしっかりと週末に。
2007年03月19日
●このためだけに?
EA、都市育成シミュレーション「シムシティ DS」普段、ゲームはしないし、ゲーム機自体持っていないのだが、なんだかこのニュースに惹かれてしまった。実際のところ、お城が手に入ったところでどうよ?としか言いようがないんだけど。
ランドマークコレクションの“お城”のパスワードを公開(GAME Watch)
エレクトロニック・アーツ株式会社は、2月22日に発売したニンテンドーDS用都市育成シミュレーション「シムシティ DS」のゲーム内で利用できる、ランドマークコレクションの“お城”のパスワードを公開した。
「シムシティ DS」には、日本各地においてランドマークとなる有名な建築物のデータが収録されている。これらの中に日本各地に散らばる“お城”などがあるが、このお城は「都市を救え!」のコーナーをクリアすると、その都市にあるお城が手にはいるようなっている。
2007年03月17日
●復元?どこが??
今日の読売新聞の社会面には大きく
宇都宮城140年ぶり雄姿、市民パワーで1億調達
の記事が。
すっかり、美談仕立てだけど、あのコンクリ塁のどこが「復元」なんだか。確かに、税金の無駄遣いについては触れられているが、史実に忠実かどうかについては、まったくといっていいほど触れられてないな。
西日本新聞にこんな記事があったな。
下の橋大手門復元めぐりシンポ 「論議尽くし解決を」 服部・九大大学院教授が自説強調
国指定史跡・福岡城跡(福岡市中央区城内)の「下(しも)の橋大手門」復元に関し、市教育委員会が作成した設計図に異議を唱えている九州大大学院の服部英雄教授が17日、文化財復元整備のあり方を考えるシンポジウムを同市中央区の九大六本松校舎で開き、約70人の歴史ファンらが参加した。市教委職員からの反論に、服部教授が再反論する場面もあり、白熱した雰囲気に包まれた。
ただ、建てればいいというわけではないので、慎重に議論を行わないと。服部さんだけでなく、千田さんまでが慎重論を唱えているようなので、どうだろう。服部さんと千田さんといえば、千田さんの織豊系城郭の形成の虎口・枡形の編年に単線的と異を唱えていたな。
2007年03月16日
●これは壮観。
馬谷城跡に10本の竪堀 白浜町 (紀伊民報)10本の竪堀とは、聞いただけでも壮観。しかも、熊野水軍の安宅氏の逃げ城というから、「水軍なのになぜに山城?」と、いろいろ興味は尽きない。 今年の研究者セミナーで報告されるかな。
中世の紀南で力を持っていた安宅氏が築城したと伝えられる白浜町富田、要害山(馬谷)城跡で、ふもとまで達する長い防御のための竪堀(たてぼり)が10本あることが、白浜町教委の測量調査で分かった。滋賀県立大学人間文化学部の菅谷文則教授(63)は「これほど長い竪堀を数多く造った山城は全国的にも珍しい。近畿地方の築城を考える上で貴重な遺跡になる」と評価している。
2007年03月14日
●倉庫でいいのか?
金沢城・鶴丸倉庫、国重文目指す 現存の江戸期城郭土蔵で最大 世界遺産へ厚み(北國新聞)去年のGWに見に行ったけど、そういえば、ずいぶんとぞんざいな扱いだったな。復元された建物の方ばかりが目立っていた。
金沢城公園内に現存する江戸時代の土蔵「鶴丸(つるまる)倉庫」は、全国で類似する 建物が少なく文化財的価値が極めて高いことが、十三日までの石川県教委金沢城研究調査室の調査で分かった。これまで県文化財指定を視野に鶴丸倉庫の準備調査を進めてきたが 、最終目標を国重要文化財指定に“格上げ”し、金沢の世界遺産暫定リスト入りへ核とな る金沢城の価値を高めていく。県教委は近く、県文化財保護審議会に価値の評価を求める 。
まあ、鶴丸倉庫が重文に指定されたところで、世界遺産認定はどうなんだろう。そもそも、江戸期の建造なら、鶴丸倉庫という名前はどうだろう。なんか違う気が。
2007年03月11日
●それにしても、大胆。
名古屋城 宝暦の大修理 工法の謎解けた!(中日新聞)築城術はいろいろと史料も出てきて、研究も進んでいるが、修築術となると、あまり聞いたことがない。それにしても、100メートルの綱で引っ張るとはずいぶんと大胆な修築をしたもんだ。木造ならではということか。 もう1つ出てきた 「御天守上見通絵図」というのも、なかなか興味深い。天守最上層からの見える360度の風景図ということだが、ほんとうにすべてが見えていたのかは気になるが、これまた興味深い。
江戸時代後期、名古屋城で大がかりに行われた「宝暦の大修理」(1751-55年)の工法を示した修理図面などが新たに見つかり、名古屋工業大大学院工学研究科の麓(ふもと)和善教授(51)の研究で、工事の細部が分かった。土台(石垣)の変形と沈下で傾いた高さ約36メートルの天守閣を、長さ100メートル以上の太縄で引っ張って保ち、その間に石垣を直し、建物内部も修理するというアクロバティックな難工事。麓教授は「尾張藩の飛び抜けた技術力がわかる。今後の文化財修理にも影響する第一級の史料」と話す。
2007年03月10日
●やはり朝鮮半島。
大野城跡で国内初、門扉の扉軸受け金具出土…福岡・宇美(読売新聞)
県教委と宇美町教委は9日、同町四王寺の大野城跡で7か所目となる新たな城門が見つかり、その遺構から国内の山城では初めて門扉の軸受け金具が出土したと発表した。金具は朝鮮半島の古代山城跡で見つかった物とほぼ同じ形で、築城技術伝来の様子などを探る貴重な史料になりそう。
古代山城は一応初めて発表した論文と大きく関連するところ。
古代山城はまだまだ不明な部分も多く、そういったなかで、もっとも有名な古代山城の一つである大野城で、こうした貴重な発見が出てくるのは非常に大きい。
こうしてみると、古代山城研究には朝鮮半島は切っては切れないようだ。
2007年03月07日
●再建という表現でいいのかな。
浜松城櫓門再建へ 天守閣は慎重姿勢(静岡新聞)
浜松市の北脇保之市長は6日の市議会代表質問で、浜松城公園(同市元城町)の整備事業について、平成20年度から天守櫓(やぐら)門や富士見櫓門などを再建する基本計画づくりに着手するなど、事業の具体的内容と年度を初めて明らかにした。ただ、天守閣の再建については「機運の動向を注意深く見守る」と慎重な姿勢を示した。
再建とあるけど、記事を読む限りは、史料もようだし、あまり期待できそうにないな。そんななかで、天守の再建なんてもってのほかとも思ったが、耐震性の問題があるのか。
そういや、大坂城なんて、歴史上一番長いのが今建ってる天守だもんな。
2007年03月06日
●あとは屏風だけ?
【湖南】安土城跡大手門周辺の整備完了 6日から一般公開(中日新聞)2年前に訪れたときはまだまだ大手前の発掘調査と整備の最中だった。ひとまず完了したようだ。ただ、記事の写真を見る限り、余計な整備も加わっているようにも見える。実際に行って確認しないとなんともいえないけど。 それより入場料の徴収が始まったんだよね。まあ、大手だけならとられないで済むけど。
安土町下豊浦の安土城跡大手門周辺地区の整備が完了し、6日から一般に公開される。事業を進めてきた県安土城郭調査研究所の近藤滋所長は「安土城の実態解明に努めてきた。憩いと学習の場として活用してもらえれば」と期待している。
安土城跡の発掘調査と整備事業は1989年、20年計画で着手。これまでの発掘調査で、大手門南側に内堀の石塁、大手門と内堀の間に広場(南北44メートル、東西100メートル)が確認された。
2007年03月04日
●意外に地味な扱い。
名古屋城の前身 那古野城の堀と溝を発見(中日新聞)御殿再建計画など、徳川時代の名古屋城に注目が集まる中で、織田信長が生まれた那古野城の遺構が見つかった。桶狭間に出陣したのが清洲城であったように、地味な扱い。 徳川氏名古屋城による破壊もあるだろうから、どこまで全容が判明するのか気になる。
愛知県埋蔵文化財センター(同県弥富市)による三の丸遺跡(名古屋市中区)の発掘調査で、名古屋城の前に築かれた「那古野(なごや)城」時代の堀と武家屋敷の区画溝が見つかった。堀と溝が造られた時期は異なり、同センターは「16世紀の戦国時代、織田氏が今川氏から城を奪った後に城郭が改修されたのでは」とみている。那古野城の遺構は少なく、全容が分かっていないだけに注目を集めそうだ。
2007年02月25日
●バイタリティー。
鳥取城築城、通説覆す 宮部父子期に現存城郭形成 (日本海新聞)石垣を使った編年か。これは実際に発掘現場に立ち会わないと、なかなか難しいだけに、非常に興味深い。 本当はこういった研究が自分もできればいいんだけどねえ。まだまだ力不足というか。気力不足。
鳥取市出身で富山大大学院の細田隆博さん(26)が、国史跡・鳥取城(鳥取市東町二丁目)の石垣を考古学的に調査し、これまで不明だった池田光政期以前の石垣の変遷を四期に分けて明示した。鳥取城石垣の総合的な調査は初めて。古い石垣の見つかった天球丸など現存する城郭の大部分が、羽柴秀吉の因幡攻め(一五八〇、八一年)の後に城主になった宮部父子によって築かれ、大手の位置は南ノ御門にあったと推測する。鳥取城築城の通説を覆す内容で注目を集めそうだ。
研究成果もすばらしいし、なによりこういった研究を行うバイタリティーを尊敬するし、うらやましい。
2007年02月23日
●こちらの現地説明会は?
前橋城三の丸遺跡:障子堀など発見 /群馬(毎日新聞)昨日は箕輪城の現地説明会を行き逃したことが判明したけど、こちらは平日に報道陣に公開されたようだ。現地説明会はないのだろうか。 それにしても、またもや堀障子か。よく出てくるな。 箕輪城はなんだかんだで、3回行っているけど、前橋城は行ってないな。現地説明会とは別にして、一度は行ってみてもいいかな。
前橋市大手町の「前橋城三の丸遺跡」で、堀の底に凹凸を設け、敵の城攻めを防いだ17世紀中ごろの「障子堀」や、川越藩9代藩主松平典則(つねのり)(1836~83)の隠居後の屋敷「静寿斎(せいじゅさい)邸」とみられる江戸時代末期の礎石などが発見され、調査した県埋蔵文化財調査事業団が20日、現場を公開した。石守晃・総括専門員は「前橋城が時代と共に東側に拡張されていった過程がうかがえる」と話した。 前橋地裁の裁判員制度導入に伴う法廷の増築工事のため、1月から約600平方メートルを調査していた。
2007年02月22日
●行き逃した。。。
高崎・箕輪城跡 三の丸にも堀(上毛新聞)毎年3月上旬に行われる箕輪城の現地説明会があったようだ。記事を見ると、調査は今年で終了というから、失敗したなあ。調査報告書が楽しみ。でも入手できるだろうか。
高崎市箕郷町の国指定史跡「箕輪城跡」の発掘調査で、本丸西側の三の丸地区に幅十八メートル、深さ十メートルの大きな堀があったことが判明した。本丸地区で確認された堀跡とつながっていた可能性が高く、出土した磁器の破片などから戦国時代に活躍した長野氏か武田氏時代の遺構とみられる。一九九八年度から続いた市教委の発掘調査は本年度で終了。今後は史跡公園整備に向け報告書を作成する。
2007年02月21日
●悪気がないと言うけどねえ。。。
ローマ法王に献上の屏風絵は無断模写 安土町作家に謝罪(朝日新聞)「商業ベースの話ではないと考えていた」というが、商業ベースでなければ模写して配っていいものっていうわけでもないだろうに。今回の件で、ビョウブログのトップからも壁画の画像がはずされているが、結局どこまで使うかについてしっかりと話してこなかったのが、やはり大きな問題。 もっとも、 >町によると、(模写した)日本画家から著作権に関する宇田さんの許諾の有無を確認されたのに、 >町の担当者は許可を得たようにうそを言ったという。 というから、悪質という感じも。
滋賀県安土町が05年11月にローマ法王ベネディクト16世に贈った安土城を描いたミニ屏風(びょうぶ)が、同町城郭資料館に展示されている陶板壁画を無断で模写したものだったことがわかった。同町の津村孝司町長が21日、壁画の原画を描いた広島県福山市在住の画家、宇田妙子さん(74)を訪ねて謝罪した。町側は「著作権に関する認識が甘かった」としており、今後、宇田さんの名誉回復策を検討するという。
2007年02月19日
●結構歓迎だったり。
ひこにゃん人気沸騰! でも肝心の「彦根城400年祭」は… (産経新聞)
彦根市で3月21日に開幕する「国宝・彦根城築城400年祭」のPRに奔走する実行委員会(彦根市などで構成)のメンバーらが複雑な表情を浮かべている。マスコットキャラクター「ひこにゃん」が全国区の人気となる一方で、祭り自体は知名度が上がらず、今ひとつ盛り上がりに欠けるためだ。このままでは本番も、PRイベントやグッズで“売れっ子”のひこにゃんの人気頼みとなりそうだ。
知らないうちに、彦根城400年祭のマスコットきゃらの「ひこにゃん」が大人気のようだ。初めて見たときは、正直「どうよ…」って思ったんだけどなあ。
ただ肝心の「400年祭」の知名度がいまいちというが、「ひこにゃん」を知っているなら、どうしたって「400年祭」のことを知ってるはずなんだけどなあ。どうやって、「ひこにゃん」だけを知るんだろう。まあ、知ってはいるけど、どうでもいいというところなのだろう。
個人的には、おととしの名古屋城博のような大盛況ぶりになるよりは、ひっそりと行われている方がありがたい。結構不人気は歓迎だったり。あの時は愛地球博も開催されていたというのも影響したのだろうけど。
とりあえず、3月にでも行ってみるかな。
2007年02月18日
●城攻め資料の決定版?
原城絵図から「島原の乱」実態迫る 佐賀で講演会(佐賀新聞)
新たに発見された絵図から島原の乱(1637―38年)の実態を読み解く講演会が17日、佐賀市の県立図書館であった。県文化課の宮武正登さんが、島原の乱における佐賀藩の役割や戦いの苛烈さなどについて解説した。
元はといえば、エントリに入れていなかった2月13日のこのニュース。
島原の乱、佐賀藩布陣詳細に 「原城絵図」発見(佐賀新聞)記事の写真を見ると、墨書ながらかなり詳細に書かれた絵図で、これはなかなか興味深い。これ以後、鳥羽・伏見の戦い・戊辰戦争にいたるまで城攻めはなく、城攻めの一つの集大成とも言える。島原の乱だけでなく、ほかの城攻めを考える上でも参考になるだろう。 博物館で見るのもいいけど、図録やデジタルデータでじっくりと見てみたい。
江戸初期に起きた「島原の乱」の激戦の地、原城(南島原市)に出陣した佐賀藩などの軍勢の配置を描いた絵図が見つかった。原城攻防の絵図は多く残るが、佐賀藩の各武将の配置までを詳細に記した絵図の発見は初めて。調査した県立図書館などは「文献史料や発掘遺構と符合する部分も多く、攻防の実態を解明する貴重な史料になる」と話している。
2007年02月17日
●正確には、「堀障子」だとか。
騎西城裏手に「障子堀」 萩原遺跡で17日一般公開 戦国時代の遺構(埼玉新聞)今日現地説明会だったのか。知ってたとしても、授業があったから無理だったけど。 堀障子も最近いろいろなところから出てくるね。埼玉だと深谷城や滝の城、メジャーなところでは大坂城。防御にどの程度の江華があったのかが、すごく気になる。
騎西町外川の萩原遺跡発掘現場で、騎西城の背後となる西側部分から、堀の底をあぜ道状にして外敵の侵入を防ぐ「障子堀」が発見された。同町教委は「入り口のある南側や東側は堅固な城だが、西側にも備えがあったのは予想外。戦国時代にこの地が守りの拠点だった可能性がさらに高まった」としている。十七日の遺跡見学会で、出土品とともに一般公開する。
2007年02月16日
●フランスか?
「安土城之図」別の場所に移動か 帰国の町調査団が発表(京都新聞)
織田信長がローマ法王に献上した屏風(びょうぶ)絵「安土城之図」を探すため、滋賀県安土町が、イタリアなどに派遣していた調査団(団長・若桑みどり千葉大名誉教授)が帰国し、16日に同町役場でした記者会見で、屏風絵がバチカン宮殿の「地図の画廊」の改修でほかの場所に移された可能性が高いと発表した。
やっぱりフランスかなのかな。こうなってくると、屏風絵が大切に取り扱われていたかがすごく不安。
フランスだと日本の明治初期にジャポニズムということで、日本ブームがあったから、そのときに「そういえば…」という感じで、掘り出されていても不思議じゃないんだけどな。
2007年02月15日
●行ったそばから、、、
【伊賀】上野城跡で想定外の石垣を発見 伊賀市教委、17日に現地説明会(中日新聞)去年夏に訪れた伊賀上野城で、思いもよらぬ石垣が見つかったようだ。去年は確か、筒井古城に天主があった可能性も指摘されていたな。 富山城といい、行ったばかりの城で何らかの発見がされることが多いなあ。
伊賀市教育委員会が進める同市上野丸之内、国史跡「上野城跡」の城代家老屋敷跡の本年度発掘調査で、敷地内の北西部の倉庫跡から、これまで考えられていた構造とは異なる石垣が見つかった。
当時の屋敷の正確な構えを知る上で貴重な資料という。17日午前10時から現地説明会がある。参加は無料。
2007年02月12日
●今頃になって初めてか。
【三河】「上ノ郷城」実在裏付け 蒲郡市教委発掘調査(中日新聞)文献や伝承があったのに、これまで発掘調査が行われていなかったというのも、なんとも驚き。今後も調査を行って全容解明を目指すというから期待しよう。
戦国時代の豪族、鵜殿(うどの)氏が治めた「上ノ郷城」とされる蒲郡市神ノ郷町の史跡で進められていた同市教育委員会の発掘調査で、城の土台とみられる石組みなどの遺構が見つかった。文献や伝承で城の存在は確認されていたが、物的証拠によって実在が初めて裏付けられた。
初めて実在が裏付けられたというだけに、どこまで遺構が残っているかが心配。
2007年02月10日
●まあ、第一歩といったところ。
幻の屏風絵「安土城之図」、バチカンに「痕跡」確認(朝日新聞)痕跡だから、まだまだといったところだけど、やや前進か。ヴィンケの書簡と外交文書の2つによる確認だから、かなり確度は高い。とはいえ、1592年時点までの存在の確認だから、現物にたどり着くまではまだまだ先になりそう。
16世紀に織田信長が狩野永徳に描かせ、天正遣欧使節がローマ法王グレゴリオ13世に献上した屏風(びょうぶ)絵「安土城之図」の手がかりを得るため派遣された滋賀県安土町の調査団(団長・若桑みどり千葉大学名誉教授)が9日、ローマで記者会見した。調査団は、1585年3月に献上された屏風が、その後少なくとも7年間はバチカン宮殿内の展示室「地図の画廊」に置かれていたことが確認されたと発表した。
記事には、
>フランスのイエズス会士による1736年の文献に安土城の挿絵があることから
>屏風が外に持ち出された可能性も。現在もバチカンに残っているかどうかは不明という。
ともあるので、フランスへ調査が広げられるのか、気になるところ。
せっかくのニュースなのに、ビョウブログが更新されないのはどうなんだろう。もう1年近く更新されていないな。
2007年02月07日
●注目されるのも良し悪し
マナー悪化で登山が許可制に 彦根市の佐和山
戦国武将、石田三成の居城跡がある彦根市の佐和山が、昨年のNHK大河ドラマ「功名が辻」で舞台の1つになったのを機に登山者が急増、ごみを放置するなどマナーの悪化が目立つようになり、同山の土地の大部分を所有する清涼寺が入山を許可制としている。
こういう不心得者がいると、安土城のように、拝観料という名目で有料にされてしまう。
まあ城好きではないだろう。登山愛好者でもないだろう。
大河ドラマでこういった城が注目されるのも良し悪し。
2007年02月05日
●今年の話題の中心?
礎石ほぼ完全に出土-高松城天守閣跡発掘調査(四国新聞)
高松城(香川県高松市玉藻町)の天守閣跡発掘調査で、天守閣の一階部分にあたる穴蔵の発掘がほぼ終了し、床面から柱の土台となる約五十個の礎石がほぼ完全な形で出土した。市教委は「予想以上の成果。天守閣の構造を解明する貴重な手掛かりになる」としている。また、発見が期待されていた天守閣の部材は見つからなかった。
高松城の発掘調査は、どんどんと新たな成果が出てくる。疎石が出てきたというのはかなり大きい。
発見が期待されていたという部材は、個人的には期待していなかった。玉藻廟を作るときに、廃棄されても不思議ではないしね。
2007年02月04日
●かなり深いなあ。
堀の底の構造が判明 中津城、予想よりも深く(大分合同新聞)
黒田藩時代(十六世紀末)に築かれたとみられる中津市の中津城本丸南側の石垣と堀を修復している市教委は一月三十一日、堀の底が当初予想されていたよりも深く、石垣の下にさらに礫石(れきいし)を重ねた構造と分かった、と発表した。城の堀の実態が分かるのは九州でも珍しく、市教委では「近世城郭の構造をより鮮明にするヒントになるのでは」としている。
写真を見る限り、非常に深い堀になっている。確かに、水堀だと水を抜かないといけないので、なかなか調査が行われにくい。大坂城のように、こちらは発掘調査でだけど、堀障子が発掘されたりと、まだまだいろいろな発見がある。最近だと、富山城が堀の水を抜いて石垣の修理を行っていたが、どうだったのだろう。
2007年02月02日
●普通にシーズン真っ只中だし。
シーズンオフなのに 鬼ノ城人気 総社 登山道遺構暖冬で来訪者続々(山陽新聞)寒いから大変という考えなんだろうけど、山城は草木の生い茂った夏よりも冬枯れのこの時期が訪れるには絶好の季節なんだけどねえ。欠点としては、記事にも出ているように、地面が雪が降って凍結してしまう場合があるのは確か。 例年と違うのは、暖冬なだけでなく発掘調査が進んでいる広まっているので、訪れたいという愛好家は多いはず。前にも書いたが、城門が整備されたら行くつもりだし。(そうなると、GWか夏まっ盛りになってしまうが)
総社市奥坂の古代山城・鬼ノ城が、シーズンオフの冬にもかかわらず人気を集めている。暖冬で比較的歩きやすいことが原因とみられ、休日には登山道や遺構を多くの人が散策する光景が見受けられる。
2007年02月01日
●石切り場だけじゃないな
越前赤瓦の窯跡発見 福井城で使用か 17世紀中ごろ 生活雑器と出土(日刊県民福井)最近、城郭研究では石切り場に注目が当たりつつある。石垣があるなら、当然屋根瓦もあるわけで、むしろ土塁の城でも屋根瓦を使う場合もある。となると、かわらを焼いたと思われる窯場というのも、調査対象としてはなかなか面白そうだ。
越前町教育委員会は三十一日、同町平等(たいら)の丘陵斜面から近世の城郭建築に用いられた大量の越前焼の赤瓦を含む窯跡を発見した、と発表した。十七世紀中ごろに生産された最初期の越前焼の赤瓦とみられ、福井城跡や金沢城跡から出土した赤瓦とも文様や焼き具合などが類似。同時代の赤瓦を焼いた窯が見つかったのは初めてで、町教委は「近世における赤瓦の生産と流通を探る上で重要な発見」としている。
2007年01月30日
●破壊が惜しまれる
日野江城の全容解明へ 南島原市の調査始まる(長崎新聞)
南島原市北有馬町の国指定史跡・日野江城跡の全容を解明する縄張り調査が二十九日、同城跡で始まった。三十一日まで。調査は市が設置した文化財専門委員会副委員長で奈良大助教授の千田嘉博氏(43)=城郭考古学=が担当。日野江城跡での縄張り調査は一九八二年の国史跡指定を受けて以来、初めて。
日野江城跡は世界遺産暫定リストに追加された本県の「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一つ。二〇〇五年十一月、旧南高北有馬町が同城跡で無許可の桜植樹工事を行い、約三十カ所を損壊。文化庁から元町長ら二人が告発され、県警の捜査が続いている。
遺構の破壊という負の話題で名をはせた日野江城で本格的な調査が始まったようだ。
奈良大学からわざわざ千田先生を招いての調査ということで、かなり本格的にやるようだ。記事によれば主要部の破壊は免れていたとのことなので、よかった。今後調査が進んで、遺構破壊によって破壊された部分が非常に惜しまれるという可能性もあるが。
遺構の様子ではなく、千田先生のワンショットを掲載している長崎新聞はなんか素敵。
2007年01月29日
●案の定。。。
「バチカンに眠る信長の夢」が放送された。
「全ての鍵(キー)は安土城に。」などと銘打っていて、ローマ法王へ献上した屏風絵のなぞにも迫るというふれこみだったが、正直がっかり。
小説の『火天の城』をヒントにしたらしく、しっかりとした検証が正直少ない。さらに、安土城天主にしても内藤案だけで進められており、これまた新たな検証がまったくなされていない。そもそも安土城は天主だけではないはず。近年推し進められている発掘調査の結果を生かした全体像の検証がおこなわれなければ、城の謎が解けるはずがない。
しかも、結局屏風絵が不明のまま。
ただのドラマの域を出ないものだった。
2007年01月28日
●怪我の功名?
福岡城 築城400年 当初の石垣遺構か 福岡市教委 上の橋大手門跡で確認(西日本新聞)福岡沖地震で一部が損壊した南側石垣の解体復元工事に伴う発掘調査によって、発見されたわけで、災い転じて福となすといったところか。しかし、記事にあるように築城当初は2分の1程度で、現在の規模になったのが江戸中期以降だとすると、大規模な改修工事、それも防御力の強化がよく認められたものだ。
福岡市教委は25日、今年築城(落成)400年を迎える国指定史跡・福岡城跡(同市中央区城内)内の「上の橋大手門」跡にある石垣内部から、築城当初のものとみられる石垣遺構が見つかったと発表した。福岡城跡内の建築物跡から、築城当初の遺構が見つかったのは初めて。同市教委は「城の変遷を知る上で重要な手掛かりとなる」と話している。
その一方で、逗子市の住吉城址が破壊されたというニュースもあった。自分は不勉強でよく知らなかったものの、かなり良好な状態で残っていた貴重な中世城郭であったようだ。鎌倉が世界遺産正式登録を目指しているというなかで、周辺の逗子市でこうした破壊がおこなわれたというのは残念でならない。
2007年01月25日
●またもや行き直し?
水戸城 15世紀に大改修 江戸氏の勢力 定説以上か(中日新聞)水戸城は4年前の夏に、思いつきでふらっと立ち寄った。ほとんど事前調査がない状態で行ったので、門だけを見て帰った。時間も遅く、学校が密集して住宅もあったりで、あまりうろうろしていると、不審者と間違われる恐れがあるので、ゆっくり見て回れなかった。 とはいえ、そもそも水戸藩の城としての水戸城という認識でだったので、今回の調査結果にあるような戦国期のことはまったく頭になかった、いま初めて認識した。、よくよく考えれば、地形的にも戦国期に大名が城を構えてもいいものだが。
鎌倉時代に築城され、水戸徳川家の居城にも使われた水戸城跡の発掘調査で、水戸市教委は二十三日、同市三の丸二の水戸第二中学校敷地内での調査結果を発表した。
これまで明らかになっていた古文書などによると、水戸城は十五世紀から十六世紀にかけて、江戸氏の居城だった。その後、江戸氏を敗走させた佐竹氏が、十六世紀末に初めて近世城郭として整備したとされる。今回の調査では、現場から陶磁器の破片などが見つかり、江戸氏が十五世紀ごろに、すでに大改修を実施していたことが分かったという。
記事では、水戸氏の勢力に関するものばかりで、肝心の城ではどこからどんなものが出てきたかが書かれておらず、残念。
2007年01月21日
●どうして気付いた?
最古の石見国図を発見(山陰中央新聞)
戦国末期の一五九〇(天正十八)年ごろ、戦国武将の毛利氏が作成した「石見国図」が、仙台市の宮城県図書館に所蔵されているのを、東亜大学(下関市)の川村博忠教授が発見した。最古の石見の国絵図となり、大田市の石見銀山と島根県鹿足郡の五カ所銀山の当時の隆盛ぶりを詳しく記載。今夏、世界遺産登録される石見銀山遺跡をはじめ、石見国の歴史を考える上で画期的な新資料と研究者は注目する。
そういえば、国絵図は2年のゼミで調べた関係で、発見した川村さんの『国絵図』も読んだ。その国絵図以前に作られた国図というから、確かに画期的な発見。あとは、毛利氏のみのものなのかどうか。1590年ころであれば、秀吉の指示によるものと言う可能性はある。そのばあい、全国の大名へ命じたのか、銀山を有する石見国など重要な国に対してのみ出されたのか。
城郭関係では、要害山の山吹城に三層の天守が描かれているのが気になる。単に形式的に描いたのか、本当に天守が建てられていたのか。記事の写真だと、戦国期城郭ではないようにみえる。
それにしても、よく見つかったな。というか、いままでなぜ気付かれなかったのだろう。
2007年01月20日
●墨はあなどれない。
富山城石垣から多数の墨書跡 金沢の全国研究会で発表 城郭刻印の研究に新分野 (北國新聞) 富山城の石垣から墨書きされた数字や文字の残る石が多数発見されていたことが分かり 、十九日、金沢市の県文教会館で開かれた第四回全国城跡等石垣整備調査研究会で、富山 市教委埋蔵文化財センターの古川知明専門学芸員が発表した。石垣に彫られた刻印は各地 の城にあるが、墨で具体的な職名らしい文字が書かれた跡まで残っていることを調査した 研究は珍しい。つい先日高松城の天守台でも発見された石垣の墨書。どうやら、刻印のための下書きではなく、わざわざ墨書したと考えたほうがいいようだ。それにしても、高松城といい、よく残っていたな。松山城の天守に落書きがあったのも、残っていたわけだから、墨のちからはかなりのものだ。
「富山城の石垣修理の調査成果」として発表された報告では漢数字の黒墨書が三十例、 同じく漢数字を朱墨で書いたのが十五例で、七や十二などの数字が多い。が、中には「六 月廿六日」や、職人の名前らしいものが読み取れるものもあった。また、石工が花押(サ イン)をまねて書いたような墨跡のほか、施工をしやすく引いた線とみられる墨跡も確認 された。
墨で石材に文字が書かれるのは、刻印を彫り込むための下書きともみられているが、直 接加工する職人らの名前が混じるとなると、城づくりに参加した下級職人の生々しい息遣 いが読み取れる。金沢城の石垣からも墨書跡は確認されているが、富山城ほど多くないと いい、石垣研究に新しい分野を開くことになる。
このほか、堀の水を抜いた場所からは、普段は水面下にあって見ることの出来ない「☆ 形刻印」の石を確認した。古川さんの報告では「真上に同じ刻印がある」といい、石垣の 方角から見ても、陰陽道の考えが反映している可能性があると古川さんは指摘している。
2007年01月18日
●自分で行くか。
戦国の往時に思いはせ 空堀など発掘 現地説明会が盛況 川口・戸塚城跡(埼玉新聞)気になっていた城のひとつ。説明会開催のニュースを14日を過ぎてから知ったので、どんなものかと思っていたら、4日遅れでニュースになっていた。 記事を見る限り、なかなかの規模のようだ。今度暇を見つけて行ってみよう。
川口市戸塚の中世の城跡、戸塚城跡発掘調査で十四日、現地説明会が開かれた。午前と午後の二回行われ、午前では予想を上回る百三十一人が見学に訪れた。
戸塚城跡があるのは、市北東部に広がる大宮台地鳩ケ谷支台に広がる戸塚立山遺跡の中。同遺跡は十五万平方メートルで、これまで三十四次に及ぶ発掘調査が行われ、旧石器時代から近世にかけて、石器、土器、住居跡、建物跡、炉穴、土坑、柱穴など遺構、遺物が見つかっている。
戸塚城は戦国時代に台地を利用して築かれ、天正年間(一五七三~一五九二年)に、行田忍領主成田氏の家臣小宮山弾正介忠孝の支配していた城とされている。
城跡総面積は同遺跡の約半分の推定七万平方メートル。これまでに幅十メートル、深さ四・五メートルの空堀、曲輪(くるわ)、橋脚跡などが発掘されている。
2007年01月17日
●陣城ですな。
三重・亀山城攻め「基地」確認 山内一豊「功名」の原点(中日新聞)
三重県亀山市の中心部にある遺構が、昨年のNHK大河ドラマ「功名が辻」に取り上げられた戦国武将、山内一豊(1546−1605年)が出世への道を開いた羽柴秀吉の亀山城攻め(1583年)で使われた城跡と分かった。戦はドラマでも家臣が戦死する壮絶な場面が描かれている。市は「功名の出発点を物語る遺跡」として一部を保存する方針を固めた。
この戦で秀吉方の遺跡が発掘、確認されたのは初めて。
一昨年の全国城郭研究者セミナーのテーマだった陣城。ただ、記事を読むかぎり、断定するのは早い気がする。陣城はまだまだ研究段階と言っていいので、一部と言わず保存して欲しい。
去年亀山城に言ったが、分からなかった。
2007年01月16日
●天守台発掘ブーム?
名護屋城天守台に別の開口部 設計変更か(佐賀新聞)高松城の天守台に続いて、名古屋城の天守台でも新たな発見。
唐津市鎮西町の国特別史跡・名護屋城跡の天守台南側から、東側にある出入り口とは別の開口部が新たに確認された。発掘に当たっている県立名護屋城博物館は、豊臣秀吉の指示で築城の途中で出入り口を南側から東側に変更したのではないかと推測する。なぜ変更したのかは謎だが、城の中心部分である天守台の設計変更は全国的にも極めて珍しく、秀吉が軍事拠点としての名護屋城を重要視していたことを裏付ける貴重な発見といえそうだ。
いまいち写真だとどのような開口部かが分からないが、一緒に掲載されている図を見る限り、出入口として計画されていたものなのか、何か別の目的を持って作られたのかは不明。角石があったということが、出入口の根拠となっているだけで、まだまだ検討の余地はある。
上に何も建っていない名護屋城でも、まだまだいろいろ発見があることに驚き。
2007年01月09日
●江戸城展
今日は冬休み最後。
両国の江戸東京博物館で開催の特別展「江戸城」を見に行く。
平日にしてはそこそこ混んでいた。
展示は江戸城関係の文書や絵画資料以外にも、近世城郭を知るためということで、安土城や聚楽第から出土した金箔瓦が展示されていて、なかなか興味深いものが多かった。
VRによる復元は、「本丸御殿と天守」というタイトルだけど、本丸御殿の紹介がメイン。といっても、いきなり内部の復元で、全体の構造があまり見えてこなかったのが残念。天守も最後に寛永の天守の外観復元の紹介のみで、せっかく展示ではいくつかの図面の紹介をしていたのになんだかもったいなかった。結局そのDVDの予約はしたけど。
2007年01月08日
●目的が気になる。
名古屋城天守閣、昔の姿に…最上階の窓小さかった(読売新聞)
名古屋市は、名古屋城天守閣最上階の窓を、焼失前の外観に戻す方向で検討に入った。
現在の窓は眺望に配慮して、以前の約2倍の横幅があるが、市民の間から「往時の姿を忠実に再現してほしい」と、根強い要望があるためだ。
名古屋城天守閣は1945年に戦災で焼失し、59年に再建された。5層7階の最上階は展望室になっており、良好な眺望を提供するため、縦73センチ、横152センチの大型のガラス窓が、四方の壁面に20か所取り付けられている。
焼失前の天守閣最上階にも同数の窓があり、窓枠自体の大きさもほぼ同じだったが、2枚一組の引き戸のうち1枚が固定され、外側が白漆喰(しっくい)で塗り固められていたため、窓の大きさは、今の半分ほどしかないように見えた。
名古屋城管理事務所によると、再建当時はガラス窓の上部に戸袋があり、窓の半分を覆う引き下ろし式の板戸が格納されていた。焼失前と同じ小ぶりな窓を“演出”するためだったと見られる。ところが、85年の改修でアルミ製の窓枠に取り換えられた際、戸袋、板戸とも取り外されてしまった。同管理事務所の林幸司所長は「古いことなので、取り外された理由は分からない」と話す。
天守閣は再建から50年近くがたち、名古屋市は今後15年以内に、外壁や屋根の改修、各種設備の更新、耐震工事などに着手することを決めている。窓の改修も、これらの工事と並行して実施できるか検討する。
古写真と違うという話は前からあったが、本丸御殿の復元事業を控えるにいたって、検討し始めたようだ。眺望を考えると、半分をふさぐのはなかなか決断に勇気がいる。1985年以前の引きおろし式の板戸で演出可能にするのか、焼失前の天守と同じく漆喰で塗り固めてしまうのか。
そもそも、なんで半分を漆喰で塗り固めていたのだろうか。天守建築とうそからそうなのか、何かの機会に塗りか耐えられたのか。目的も気になるところ。
2007年01月07日
●次は高松?松山?
穴蔵入り口、全容現す-高松城天守閣跡発掘調査(四国新聞)復元に向けて次々と判明している高松城の天守台で、またもや成果が。構造だけではなく、墨書と刻印が見つかったというのも見逃せない。一般公開するなんて、うらやましい限り。
高松城天守閣跡(香川県高松市玉藻町)の発掘調査で、高松市教委は五日、発掘現場を報道陣に公開した。天守台石垣の側面から天守閣の一階部分に当たる穴蔵の入り口が全容を現し、入り口横の袖石からは天守台の水平レベルを示すとみられる墨書が見つかった。高松市教委は「(墨書は)天守台の構造を示す貴重な資料」としている。高松市教委は七日に現場を一般公開する。
穴蔵の入り口は幅三メートル、高さ二・五メートル。天守台に上るため明治以降に設置された階段を取り除いたところ、石垣側面の一部を切り取った格好で見つかった。
入り口は穴蔵を埋める際に石積みでふさがれているが、切断面が真っ直ぐな袖石で囲まれ、全容がはっきり確認できる。入り口前面下部では平らな石を並べた階段も出土した。 墨書は袖石など二カ所で見つかり、袖石には「柵天守九尺五寸下水」と書かれていた。墨書のある石から「九尺五寸(二八七・八五センチ)」下に天守の最下部があることを示しているとみられ、実際の天守台の底部までの高さと一致した。もう一つは穴蔵入り口の床面の石に「平元」とあり、穴蔵の底を意味すると推測される。
墨書のほか、城内各所で見られる「ち」「り」と読める符号が刻まれた刻印石も発見。こちらは石を積む際の目印の可能性が高い。
天守台上面では、穴蔵の壁面の最上部とみられる石積みや、天守閣の礎石四個と礎石の跡五カ所を確認。天守閣解体後に建てられた玉藻廟(びょう)の基礎も明らかになっている。
去年は、初めて四国へ行ったわけだけど、高知の次は高松かな。その前に、松山城は外せないか。
2007年01月06日
●GWの予定は決定?
鬼ノ城北門の復元進む 3月末完成へ 総社市教委 巨石敷き柱並ぶ 壮大な門構え 徐々に(山陽新聞)
総社市奥坂の古代山城・鬼ノ城(国指定史跡)の整備に取り組む総社市教委は、同城北門の復元作業を進めている。西門や角楼に続く遺構修復。3月末の完成に向け、古代の土木技術を結集した城の威容が現れつつある。
古代の山城では、調査・復元が進みつつある鬼の城。古代の土木技術を結集したという城門が一体どんなものなのか、気になるところ。
3月末の完成ということは、今年のゴールデンウィークは岡山かな。津山城も備中櫓も復元工事中は見たけど、完成後は見ていないことだしね。
2007年01月05日
●忍城と石田堤
忍城へ行く。
まずは、吹上駅で下車して、石田三成が秀吉の小田原攻めの際に、忍城を包囲して水攻めを行ったという石田堤を見に行く。
大体の場所は地図で把握していたのだが、これが思いのほか遠かった。調べた限りでは駅から徒歩15分という話だったが、30分近くかかってしまった。途中本当につくのかどうか不安にあってしまった。しかも川の無いところに唐突に石田堤が現れる。石田堤史跡公園とつけられるだけあって、堤の断面を見せたり、解説版が詳しかったり、新幹線の江華下の櫓の下に立つと、アナウンスが流れたりと、なかなか趣向が凝らされていた。
駅に戻ってバスで忍城へ行こうと思ったが、ちょうど駅に向かう通りに出たところで、ちょうどバスが出て行った。で、仕方なくタクシーに。
忍城自体は遺構はほとんど残っておらず、今たっている御三階櫓も位置も外観も正しいものではない。資料館の展示を見るのが目的だったりもする。本当は水城公園にも行くつもりだったけど、資料館を出たところで、ちょうど循環バスの時刻になったので、帰りの足を考えて、素直にバスに乗ってJR行田駅へ。
石田三成の陣跡や、行田市の石田堤など、まだまだ見て回るところがあるので、そのうち機会を見つけて、再訪しよう。
2006年12月29日
●水軍城もね。
阿波水軍居城の石垣発見 阿南・椿泊小跡地、111年ぶり姿現す(徳島新聞)
阿南市椿泊町の椿泊小学校の跡地から、阿波水軍(森水軍)の居城だった「松鶴城」の石垣が見つかった。1895(明治28)年、城跡に同校の最初の校舎が建設されて以降、石垣など城の遺構の存在は分かっていなかったが、校舎の新築工事に伴う発掘調査で、111年ぶりにその姿を現した。 石垣は長さ約四十メートル、高さ約一・四メートル。江戸初期から明治末期にかけて、城の拡張のために作られたとみられる高さ約二メートルの石垣の内側で見つかった。小さめの石をほとんど加工せずに積み重ねた「野づら積み」で、海に降りるための階段も残っている。
写真を見る限り、なかなかの石垣。
小学校の建て替え工事を受けての発掘調査で、見つかったもので、工事で一部が壊され、残りは埋め戻されるという。なんとももったいない。同じ教育委員会の管轄なんだから、どうにかならないものか。
水軍城というのも、結構興味はある。
2006年12月25日
●せっかくのタイミングなのに
武田の館跡で幻の門、出土(朝日新聞山梨県版)どういうわけか、武田の館跡というずいぶんと大雑把な表現。なんで、武田氏館or躑躅ヶ崎館と書かないんだろう。 写真を見る限り、よく土壁の一部と気付いたもんだ。しかも、水路も見つかっているというから、発掘調査報告は楽しみ。もう埋めてしまうのがなんとももったいない。いいタイミングでの発掘成果なのにね。 そういや、躑躅ヶ崎館といえば、立ち入り禁止の天守台に一度行ってみたい。
戦国武将・武田信玄が1551年前後に設けたとみられる土壁と門の跡が、甲府市古府中町の武田の館跡(現・武田神社)で22日までに見つかった。これまで、この門の存在は文献などでも確認されていなかった。土壁は門の一部に使われたとみられ、厚さもわかる状態。専門家らは「謎の多い当時の館の姿を知る貴重な資料」と評価している。
2006年12月24日
●復元なるか。
高松城天守閣の「穴蔵」確認-発掘調査(四国新聞) 発掘調査が進む高松城(香川県高松市玉藻町)の天守閣跡で二十二日、天守台の石垣の側面から天守閣の玄関にあたる穴蔵(天守閣の一階部分)の入り口が見つかった。天守台上面では穴蔵の輪郭を示す石積みが姿を現し、古文書しか資料のなかった穴蔵の存在が確認された。石積みの周囲には天守閣の礎石も見つかり、調査開始早々、これまで謎だった天守閣の構造の解明につながる発見が相次いでいる。
天守復元を見据えた発掘調査で、いきなりの発見。古写真も最近見つかったらしく、復元に向けて、調査は順調なようだ。とはいえ、まだまだ間取りの類推は難しいので、先は長いか。
とりあえず、やっつけの復元だけはしないでほしい。
そういや、今日ってなんだっけ。まいいっか。
2006年12月22日
●フルスタ?
信長の側室「お鍋の方」の居館か 高野館遺跡で遺構発見(中日新聞)
東近江市永源寺高野町の高野館(たかのやかた)遺跡から16世紀後半の石垣、スロープと考えられる遺構が見つかったと22日、同市教育委員会が発表した。地方豪族の居館と比べ規模が大きく、市教委は「近くに信長の側室『お鍋の方』が信長没後、秀吉から屋敷を賜った所として伝わる高野城遺跡があり、居館の可能性がある」としている。
側室の居館に石垣が使われているとは、さすが信長というか秀吉というか。しかもレンガが出てくるとはねえ。なかなか見逃せない発見かも。
レンガが発掘といえば、春先のフルスタのマウンドを思い出す。
2006年12月21日
●おおっ!
秩父に新たな城館跡? アマチュア研究家が発見(埼玉新聞)
秩父市荒川贄川(にえがわ)の市立荒川西小学校の裏山で、山城跡とみられる人工的な平場遺構を確認した地元のアマチュア研究家で埼玉城郭探訪会代表の持永正夫さん(64)が二十四日、現地説明会を開く。文献資料は見つかっていないが、専門家も城館跡と認めているといい、持永さんは「贄川城」と名付けた。 県教委の調査で、県内には六百七十九件、秩父地域には四十七件の城館跡があるという。研究が進めば「贄川城」は晴れて四十八件目になる。
他県での発見のニュースはよく見たけど、埼玉県では初めて。
一応、埼玉県内の城館は679なのか。齋藤慎一さんが深谷市での講演のときに、
問:埼玉県にはいくつ城がありますか?
答:わからない
なんてのがあった。
この場合の「わからない」は、「実数の把握は困難」という意味で、いわゆる専門家ジョークだったけど、こうして発見されるように増え続ける。逆に、城館跡ではないと減る可能性も無きにしも非ず。
この城もまだまだ検討が必要だろう。まず、記事にあるように物見だとしたら、どこの城の物見として機能していたかが大事。
2006年12月20日
●早いけど。
2学期の最終授業。
ということで、とりあえずは仕事納めになるのかな。
夜は蛇合戦。ん?
2006年12月18日
●今でも発掘されるのね。
玄関口「くせ者は通さぬ」 姫路城内堀から刺股出土(神戸新聞)
世界文化遺産・国宝姫路城(姫路市)の玄関口「大手門」周辺の発掘調査で十七日までに、内堀から江戸時代のものとみられる刺(さす)股(また)が出土した。内堀には明治初期まで「桜門橋」と呼ばれる木橋が架かっていたが、同市埋蔵文化財センターは「桜門橋付近にあった番所に配備されていた可能性が高い。絵図でしか分からなかった玄関口の実態を知る上で貴重な史料になる」としている。見つかった刺股は、先端の金属製の部分で長さ約三十センチ。江戸時代の堀底にたい積していた約五十センチの泥の中から、二つに折れた状態で見つかった。さらに、堀底からは鎹(かすがい)約三十点、くぎ約十点、のみの刃一点も出土。鎹やくぎは、桜門橋に使われたとみられ、明治初期に陸軍が土橋に架け替えた際に埋まった可能性があるという。
姫路城でもまだ出てくるんだね。建物が残っている分、発掘調査はあまり行われていたって事なのだろうか。
とりあえず、平成の大改修の前にもう一度行かないと。
2006年12月15日
●だったら、更新も忘れずに。
「安土城之図」を再び探索 町が1月から海外調査団派遣(京都新聞)安土城はかなりやる気だなあ。記事にあるように、見つからなくとも、調査の積み重ねは重要なのは確か。西洋美術の教授なんだね。 それはそうと、4月以降まったく更新されていないビョウブログをどうにかしようよ。
滋賀県安土町は14日、織田信長がローマ法王に献上したとされる屏風(びょうぶ)絵「安土城之図」を探すため、来年1月11日から調査団をバチカンとイタリアに派遣すると発表した。同町からの派遣は2005年に続き2度目。今回は歴代法王の財産目録などを収蔵するバチカン秘密古文書館の訪問も含まれており、関係者は、幻の屏風絵発見につながる手がかりをつかみたいとしている。
2006年12月13日
●武田系?
武田の築城法生き生き 諏訪原城跡現地説明会 島田(静岡新聞)
島田市博物館は10日、発掘調査を進めている国指定史跡・諏訪原城跡(同市菊川)の現地説明会を行った。発掘調査は平成16年度から始まり、説明会は今回が初めて。午前の部、午後の部に合わせて60人が参加した。
諏訪原城は天正元年(1573年)に武田勝頼が家臣の馬場美濃守氏勝に命じて築城させたとされ、現存するのはこのころの遺構という。戦国時代末期の築城法の特徴が残っていて、空堀や土塁などの保存が良好。同3年に徳川家康の手に落ち、「牧野城」と改名されて以降に増築された大手曲輪(くるわ)と呼ばれる方形の曲輪も確認されている。
武田の築城法というと、武田系城郭議論を思い出してしまうが、そこまでの意味はなさそうだ。後は気になるのが、のろし台の存在。遺構か何かあるのだろうか。
2006年12月12日
●いつも言ってる気がする。
名護屋城の前田利家陣 主要遺構明らかに(佐賀新聞)名護屋城はいろいろ出てくるなあ。秀吉の庭園なんていうのも以前出てきたはず。陣城としては破格の規模の城で、九州地方の織豊系城郭、近世城郭の原点といってもいいような城だけに、見逃せない。そういや、絵図も見つかっていたな。 いずれにせよ、熊本城と並んで、九州で行きたい城。
国特別史跡・名護屋城跡(唐津市鎮西町)を調査している県立名護屋城博物館は11日、前田利家陣跡の発掘成果を「保存整備委員会」で報告した。これまでに見つかっていた城郭に匹敵する石垣や虎口(出入り口)のほか、大規模な邸宅部分の遺構も発見され、軍事的要素と滞在拠点としての性格を併せ持っていたことが分かった。豊臣秀吉の補佐的な役割を果たした有力大名の陣跡の主要遺構が明らかになったのは初めて。
2006年12月11日
●流行なのか。
馬谷城跡で測量調査 白浜町教委 (和歌山新聞)連続畝状竪掘群か。そういえば、今年の夏の城郭研究者セミナーでも話題になっていたな。なんだか、最近良く耳にする。 あとは交通の要所に立地しているということで、伝えの城として機能した時期は無いのかも気になる。
白浜町教委は2日から10日まで、中世の紀南で力を持っていた安宅氏の家臣が築城したと言い伝えられる同町富田、要害山(馬谷)城跡の測量調査をした。今回は本丸や曲輪(くるわ)を中心に行い、来年2月には連続して造られた畝(うね)状の竪堀群などを測量調査する。
2006年12月09日
●「最後」という響きは麻薬。
山口市の国史跡・大内氏館跡 池泉庭園9日現地説明 復元整備控え最後の公開(西日本新聞山口) 山口市大殿大路の国指定史跡・大内氏館跡の復元整備に伴う発掘調査を進めている同市教委は9日午後1時から、室町時代の池泉庭園を再発掘した第31次調査の現地説明会を開く。雨天決行。参加無料。今後、現場周辺は復元整備事業に入るため、発掘された状態の庭園を見学できる最後の機会となる。最後の公開という言葉に、ちょっと焦るけど、復元されるなら、まあいいか。発掘途中の状態を見るというのも貴重なことだけど、埋め戻されて上に何かが建つわけではないので一安心。
2006年12月08日
●やっぱり、もったいない。
岩槻城の絵図発見 江戸中期は初めて 宮代の関根さん方(埼玉新聞)埼玉県の三名城のひとつとされながら、ほとんど遺構が残っていない岩槻城。城掟など、資料自体はそれなりに残っている。たしか、絵図自体はこのほかにも残っていたはず。そういう点では、非常にもったいない城。 来年度の一般公開を忘れないようにしないと。
宮代町金原の関根孝吉さん(69)方から、今から三百年ほど前に描かれたとみられる岩槻城の絵図が発見された。畳二枚ほどある大きな絵図で江戸時代中期の岩槻城と城下町が描かれている。江戸初期と江戸後期の絵図は発見されているが、中期のものは初めて。 さいたま市教育委員会文化財保護課は「岩槻城の歴史と変遷が分かる貴重な資料」としている。
2006年12月07日
●何はともあれ、めでたい。
高知城西側 県マンション用地購入へ(高知新聞)
藩政期の遺物が出土、保存に向けた声が高まっていた高知城西側(高知市丸ノ内1丁目)のマンション用地を県が買い取り、史跡として保存する見通しになった。県教委が6日発表した平成19年度当初予算の見積もり概要に、買い取り費用など約5億7200万円が盛り込まれた。県教委は「(土地購入に向けて)おおむねマンション業者との合意が得られた。史跡指定に向けた申請作業を急ぐ」としている。
一応、夏の全国城郭研究者セミナーで、署名したので解決の見通しが立ったということでよかった。そういや、10月の見学会でもこの話になったが、取り立てて保存へのアクションを起こさなかったのはどうったのだろう。
2006年12月05日
●樹木も大事だけど。
佐和山の景観を守れ 彦根・地元住民ら会結成 (京都新聞)
石田三成の居城があった滋賀県彦根市の古沢町から佐和山町にまたがる佐和山の自然と歴史的な景観を守るため、地元住民が中心になって「佐和山の森を美しくする会」(来本作治代表)を結成し、生い茂る竹の伐採作業やリサイクルの竹炭づくりを始めた。
彦根駅をはさんで反対側にあるだけで、扱いの差が大きい佐和山城。以前にも、間伐のニュースはあったが、市民の理解を得られて、行われているようだ。彦根市も世界遺産へ申請するなら、近隣の佐和山城を大切にしないとね。
2006年12月03日
●なかなか絵心があったのね。
松山城に武士の似顔絵、江戸時代建築職人の落書きか(日経新聞)先月末にはタイトルだけは、目にしていたのだけど、愛媛新聞のHPは県内居住者のみ閲覧可能なので、肝心の本文記事自体は見られずにいた。 最初は「落書き」とあったので、なにか言葉が書いてあったのかと思ったら、絵だったのか。結構現代的なタッチにも見える。 愛媛新聞も、県外在住者にも開放してほしい。
松山城天守閣(松山市、重要文化財)の約40年に1度の改修工事で、はがした壁板の裏に描かれた武士の似顔絵が見つかった。松山城総合事務所は、江戸時代後期の再建工事で職人が落書きしたとみている。
2006年12月02日
●まだましな方?
大聖寺城 総構堀に石垣 古地図と場所一致 文化財調査で発見(北陸中日新聞)正直初耳の城だったけど、どうやらかなり遺構が残っている城のようだ。記録や資料がほとんど残されていないというが、 『加賀藩史料』収録の『山口軍記』に出てくるし、江戸末期とはいえ、古地図にも載っているから、そこそこ残っているんじゃないの?と思ってしまう。もっと資料の無い城を研究で扱うことが多いので、どうしてもね、そう思ってしまう。
加賀市が同市大聖寺本町の市民病院付近で実施した八間道遺跡の文化財調査で、戦国時代末期に築城された大聖寺城の総構堀(そうがまえぼり)の石垣が発見された。一六一五年に幕府が発令した一国一城令で廃城となり、記録や資料がほとんど残されていない大聖寺城の姿を物語る遺跡として注目される。
2006年12月01日
●教科書が変わる?
象形青白磁が初出土 喜多方・新宮氏城跡(河北新聞)授業じゃ、普通に日宋貿易・日明貿易とか、朝鮮との出会貿易とか教えているが、こんな発見があると、新たな交易関係が出てくるのだろうか。教科書にも大きく影響してくる??となると、新潟の港で交易をしていたのだろうか。
13―15世紀にかけ、現在の福島県喜多方市一帯を治めた豪族・新宮氏の居城跡=同市慶徳町=から、中国の元か明の時代に作られた象をかたどった青白磁の破片が出土した。国内で同様の青白磁が出土した例はなく、当時の会津地方と東アジアを結ぶ交易ルートの存在や、熊野神社と関係が深い新宮氏の実像を探る貴重な資料になるとみられる。
2006年11月29日
●素通り気味だった
和田城跡で銃弾発掘 信玄朱印状を裏付け(中日新聞)箕輪城へは何度か行ったが、高崎城となると箕輪城の帰りに少し立ち寄るだけで、櫓以外特別見て回ってないな。なんでも、和田城櫓跡は、近世以降のものと判明し、史跡指定も解除されたらしい。見とけば良かったな。
高崎城(高崎市)が築城される前にほぼ同じ場所にあった和田城跡で、火縄銃の弾一個と従来の城絵図にない堀跡が発掘されたことが二十八日、県埋蔵文化財調査事業団の調査で分かった。和田城をめぐっては、戦国武将・武田信玄が弾搬入を命じた朱印状が残されており、これを裏付ける発見。同事業団は「和田城は戦略上の要地にあった。関東進出を図る武田氏と、前橋を拠点にしていた上杉謙信とで繰り返された城争奪戦を想起させる」としている。
2006年11月28日
●せっかくいろいろ発見したことだし。
勝龍寺城の西辺部確認 長岡京市埋文センター (京都新聞)訪れたのは、一昨年になるのかな。城址公園にはなっていたけど、とってつけたような感じだった。今回の調査でいろいろ出てきたようなので、もう少し保存なども充実させてほしい。
京都府長岡京市東神足2丁目で勝龍寺城跡遺跡発掘調査をしていた市埋蔵文化財センターは27日までに、江戸時代の武将の永井直清が築いた勝龍寺城の西辺部を確認した。発掘した同センターは「西辺部は江戸時代から伝わる絵図にほぼ似た形で出土した」としている。
2006年11月26日
●大坂城がそうだしね。
『一向一揆拠点』 白山市の船岡山城 金沢入城で利家大改修か(北陸中日新聞)一国一城令発令前のことだから、出城の構築されいたとしても不思議ではないな。一向宗の拠点を城郭として再利用するのは、かなり多いな。一番の典型が大坂城だし。
戦国時代に加賀の一向一揆の拠点と考えられてきた石川県白山市八幡町の船岡山城が十六世紀末に、石垣を高くするなど大きく造り替えられていた可能性が高いことが、石川考古学研究会の佐伯哲也さん(43)=富山市=の調査で分かった。調査は一揆勢が敗れた後、加賀藩祖前田利家が金沢城に入城した一五八三(天正十一)年ごろに城は再整備されたという見方を裏付け、利家がつくった防衛ラインを考える上で注目される。
2006年11月25日
●鉄炮伝来展
国立歴史民俗博物館へ行く。
明日までの企画展「歴史のなかの鉄炮伝来」を見るのが目的。
まず、歴博がある一帯の佐倉城を一通り見て回る。
ちょうど入ると14時からのギャラリートークの時間で、宇田川さんの解説を聞く。宇田川さんの説が色濃く反映されている展示だった。
帰りに、ミュージアムショップでずいぶんと買ってしまった。
2006年11月24日
●これは知らなかった。
「三城城」跡から聖具 キリシタンの歴史を刻む 大村市 花十字紋瓦を加工(西日本新聞)
大村市教委は22日、キリシタン大名として知られる大村純忠の居城「三城城」の武家居住区跡地から、花十字紋瓦を転用したキリシタンの聖具を発掘したと発表した。三城城下からキリシタンの遺物が発見されたのは初めて。瓦は中央に花十字をあしらった軒先瓦で、直径8.8センチの円形。本来は教会の屋根に使われるが、瓦の外周を意図的に打ち欠き、信仰道具として使用したとみられる。大村藩は全国に先駆け、1606(慶長11)年に禁教令を敷いたとされており、市教委は「全国禁教令(1614年)より前に、潜伏キリシタンが存在したことを示す貴重な資料」と評価している。
まずこういった軒瓦があったことをはじめて知ったし、周囲を意図的に打ち砕いてあると、信仰用に用いられた証拠になるということもはじめて知った。
でも、潜伏キリシタンが持っていたのなら、軒瓦なんか作らないような気がする。それとも、軒瓦だけど実際に瓦としては使用しなかったということなのかな。
2006年11月23日
●適正距離
煙のたすきで琵琶湖一周 のろし駅伝、45山城跡2時間かけ (京都新聞)<br> 戦国時代の通信手段だったのろしで、滋賀や岐阜に残る45カ所の城跡をつなぐ「第5回近江中世城跡琵琶湖一周のろし駅伝」が23日、行われた。 今年は、来春から始まる国宝・彦根城築城400年祭の成功を祈って彦根市の彦根城で開会式が行われ、午前10時に同市の佐和山城跡から、のろしのリレーがスタート。観音寺城(安土町)や南比良城(大津市)、松尾山城(岐阜県関ケ原町)など、時計回りで総距離200キロ以上を1周し、約2時間かけて再び佐和山城跡に戻った。
本当はいきたかったけど、日程の都合で断念したイベント。200キロを45城で伝えたわけだから、平均4.5キロ弱か。距離の問題は気になるところ。かたくなに2キロだと言い張る人もいれば、「10キロ以上でも大丈夫やろ」という人もいるしで、結構自分の研究にはいろいろとかかわってくる。本当のところは、「場所による」というところなんだろうけどねえ。調べた結果、見えてきた数値がその地域での適正距離ではないかと。
2006年11月21日
●情報錯綜?
出石城「虎口」を確認 豊岡市出土文化財センター(日本海新聞)記事中で、出石城は1604年に小出吉英が築城とあり、さらに虎口を築いた後に石垣を改修した跡があり、防御機能を強化したとみられるとある。武家諸法度成立までの短期間に、防御強化の改修が行われたと考えられ、その目的が気になる。
兵庫県豊岡市出土文化財センター(瀬戸谷晧所長)は二十日、同市出石町内町の出石城跡で、現在の役場に当たる「居館」への通路と推定される「虎口(こぐち)」の跡を確認したと発表した。この虎口をふさぐ形で別の石垣も確認。同センターは「全国の城主が敵の侵入から城を守るために取った防御方法を知る資料となる」としている。二十四日午後一時半から現地説明会を開く。
とおもっていたら、読売新聞にこんな記事があったようだ。
出石城(兵庫県豊岡市):織豊期の石垣が400年ぶりに現れるもっと前に築かれていたということか。 もっと情報が出てこないとわからん。
出石町の豊岡市指定史跡の出石城の発掘調査を行っていた同市出土文化財管理センターは、織豊期とみられる石垣が出土したと発表した。南北方向と東西方向の二つの石垣が出土し、東西の石垣の方が新しいものとみられた。同センターは、時代背景などから秀吉時代に前野長康などの出石城主の誰かが有子山城のふもとで実務を行う陣屋のような建物の基礎部分として築いたと推定している。また、出石城の始まりが秀吉時代まで遡ることが出来、出土した石垣は有子山城に繋がるものだったと考えられた。また虎口部分も出土したが、おそらくは情勢不安定で敵の侵入に備えるためか新しい石垣でふさがれていた。
2006年11月18日
●東北といえば、
鳥海柵跡遺跡:掘っ立て柱建物跡など、新たに6棟の遺構--金ケ崎/岩手(朝日新聞)東北といえば、やはり古代の城柵。安倍氏時代の遺構となると、奥州藤原氏との絡みもあるのかな。
金ケ崎町西根の鳥海柵(とのみのさく)跡遺跡の発掘調査で今年度新たに掘っ立て柱建物跡4棟と竪穴式住居跡2棟の計6棟の遺構が見つかった。掘っ立て柱建物のうち3棟は出土した土師器(はじき)から安倍氏時代の11世紀の遺構とみられる。
2006年11月17日
●「行かねば」ばかり。。。
掛川・国史跡『高天神城跡』 範囲広げ追加指定(中日新聞)
国の文化審議会(阿刀田高会長)が十七日に答申した史跡名勝天然記念物の指定で、県内からは掛川市の国史跡「高天神城跡」(たかてんじんじょうあと)の指定範囲が広げられ、追加指定された。
県教委によると、険しい地形を利用して築かれた高天神城は、北は東海道から南は海沿いにまでにらみをきかすことができた難攻不落の城。かつては「高天神を制する者は遠州を制す」と言われ、今川、徳川、武田の武将三氏によって、数々の攻防が繰り広げられたという。攻防の末、一五八一(天正九)年、城は徳川家康により攻め落とされ、廃城となった。
城跡は一九七五(昭和五十)年に、国史跡に指定、二〇〇五年三月には指定範囲を拡大、追加指定されていた。今回は、敵の侵入を防ぐため南に延びる尾根を分断した堀切や見張台のほか、山すその一部が追加指定されることになった。
武田氏の歴史などでしばしば登場する高天神城。そっか、史跡指定が拡大したのか。ということは、それだけ広範囲で遺構が残っているとも言える。一度はいかねばならない城だけど、ますます行きたくなってきた。
2006年11月12日
●いいね。この連載。
最近、日経ネット関西版の連載「素顔の歴史」が面白い。
最新の6回目が「城の金箔瓦、権力の輝き」ということで、城郭の金箔瓦について書かれている。
5回目が「大阪城、土台は「徳川の城」」
4回目が「安土城に平安京模倣説」
なかなか、面白い内容が続いている。
それにしても、「信長の城・秀吉の城―織豊系城郭の成立と展開」展が開催されていたのか。知らなかった。失敗した。
2006年11月11日
●一気に原始に。
弥生期楼閣の柱か、鳥取で出土…現存で最長7m(読売新聞)城の歴史をさかのぼる場合、原点となるのが弥生時代の高地性集落であり、環濠集落となる。楼閣は、物見櫓として機能していたわけで、これが最終的には天守建築へとつながるわけだから、城郭研究から見ても貴重な発見となるだろう。
弥生人の骨や脳などが見つかった鳥取市青谷町の「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」で、1999年に出土した長さ7・24メートル、直径17センチの杉の木材が、現存する弥生時代のものでは最長の建物の柱とわかり、鳥取県埋蔵文化財センターが10日、発表した。同時代に高層建物があったことを示す初の出土物で、調査した鳥取環境大の浅川滋男教授(古建築史)は「魏志倭人伝に記された『楼閣』(物見やぐら)が実在したことを裏付ける物証」としている。
2006年11月10日
●調査結果もだけど。
名古屋城・本丸御殿復元:跡地にセメント様の層 市、試掘調査公開 /愛知(毎日新聞)一番の焦点は、セメント層が江戸時代のものかどうか。 そうか、本丸御殿の復元にいよいよ着手するのか。調査結果もさることながら、こっちの事業も気になってならない。去年の名古屋城博で資金が集まったのかな。そういや、寄付しようと思って忘れてた。熊本城も。
名古屋城本丸御殿の復元に向け、名古屋市が実施している本丸御殿跡地の試掘調査が9日、報道陣に公開された。 調査では礎石が点在する跡地に1メートル四方の調査区域を6カ所設けて、地面を試掘。その結果、砂利の下に3~4センチのセメント様の層が敷かれているのが見つかった。この層が59年の整備時に敷かれたものか、江戸時代に施工されたものかは今後調査していく。11月末までに跡地の地層状況などを調べ、分析結果をまとめる予定。
2006年11月09日
●行った県での発掘成果が多いな
田村城跡:室町期で県内最大の平城--南国市教委発掘結果 /高知(毎日新聞)先月行ったばかりの高知での発掘成果。 室町期とあるように、戦国期に入る以前のもので、守護所にあたるようだ。 すでに行われた発掘調査では、内堀が幅7メートル、深さ2.2メートルとかなりの大きさを持ち、それだけでもかなりの規模の城だということがわかる。 山城以上に残っていることが難しい貴重な平地城館だけに、12月の外堀の発掘調査でどのような成果が出てくるか、とてもきになるところ。
室町時代の土佐守護代だった細川氏が築いたとされる田村城跡(南国市田村)の発掘調査結果を7日、南国市教委が発表した。内堀に囲まれた城内の規模が明らかになり、南北約120メートル、東西約100メートルと判明した。市村高男・高知大教育学部教授は「守護所の実態は全国的に明確になっていないことが多く、当時の様子を知る貴重な遺跡」と評価している。【米山淳】
2006年11月08日
●西の京都ですな
大内氏築山跡の南限確認-山口(山口新聞)大内氏館とは別に、別邸として築山が存在していたということか。知らなかった。 調べたところ、山口は応仁の乱の際に、都の貴族や僧侶が避難することで、栄えた町ということで、宗祇が句を詠んだこともあるそうだ。まだまだ調査が継続されるようなので、全貌の解明を期待したいもの。
山口市教委が市内上竪小路の「史跡大内氏築山跡」で進めていた発掘調査がほぼ終わり、4日午後2時から一般市民を対象にした現地説明会が開かれる。史跡の南側から堀の遺構が出土し、築山跡の南限が確認できた。
現地は旧料亭「菜香亭」があった八坂神社の境内地。市が取得後、遺跡公園整備のため6月から発掘調査していた。
佐藤力文化財保護課主任主事によると、調査したのは約400平方メートル。堀遺構は表通りの築山小路に沿って出土したもので延長20メートル以上、幅3メートル以上、深さ1メートルの規模。
大内館跡の堀と比較して幅は同じ程度だが深さは浅い。土師(はじ)器などの出土品から堀が築造されたのは29代大内政弘から30代義興の時代と推定している。
今回は本格的には第1次の調査。来年度以降も発掘調査を続け「築山跡が指定範囲より広がっているのかどうか、南側の堀の角地を確認したい」という。
2006年11月07日
●高校が破壊するのか。
菊池高 敷地内で菊池一族の館?発見 大規模な堀と建物跡(くまにちコム)
県教委は三日、菊池市隈府の菊池高校の敷地内から、菊池一族とみられる中世の武士の館跡が見つかったことを明らかにした。校舎建て替えに伴う、埋蔵文化財の発掘調査で分かった。
この発掘調査で、菊池一族の館があったという言い伝えが裏付けられたことになる。幅約3メートル・深さ約2メートルの堀に、掘立柱建物群と呼ばれる三十近くの建物の跡や柵跡が発掘され、規模は約100メートル四方と推定され、一辺はほぼ完全な形で今回発掘された。堀の規模はなかなかのもの。
せっかくの発掘成果も、校舎建て替えのため、一部は埋め戻して保存される一方で、一部は貯水タンクの埋設のため破壊されるそうだ。すでに、保存会が発足していて、保存の要望が出ているが、はたしてどうなるか。教育機関が、貴重な遺構を破壊するとはねえ。
2006年11月06日
●再指定の可能性は?
土盛りの発掘調査始まる(東日新聞) 蒲郡市教育委員会は9日から、中世の城跡と見誤っていため昨年、史跡指定を解除した土盛りと周辺を発掘調査する。市道新設に伴う事前調査で、土盛りが江戸初期の旗本屋敷のものとする確認の調査でもある。史跡指定の解除のニュースを以前見た記憶があるのだが、ブログ内を検索したけど見つからず。中世の城跡でないからと、史跡指定を解除したが、「徳川家康を生んだ松平本家に近い竹谷松平家の旗本屋敷跡の土盛り」というのであれば、それはそれで非常に価値のある遺構のような気がする。
調査の結果、再度江戸初期の旗本屋敷跡として、史跡指定される可能性があるのだろうか。まあ、市道建設が優先されそうだが。
2006年11月03日
●深谷城
深谷城というか、齋藤慎一さんの講演会へ行く。
齋藤さんの講演は、箕輪城発掘現地説明会以来だったが、今日は随分と初心者向けに近い内容だった。とはいえ、中世城館の特徴をみつつ、限られた史料から深谷城の位置づけを考察するというもので、大いに興味のある内容だった。自分があそこまでできるかというと、まだまだ勉強が足りない。
肝心の深谷城自体は、発掘調査自体は終了して埋め戻されており、お城風につくられた城址公園があるのみ。
2006年11月02日
●大手というからには。
仙台城跡:発掘、巽門東に大規模堀 市教委、きょう現地説明会 /宮城(毎日新聞)仙台城も伊達政宗時代の石垣の発見以来、いろいろと発掘調査が進んでいる。 城の大手の向きが変わるというのはよく聞く。伊達政宗期の石垣が埋められて新たに石垣が組まれたころに、大手が変わったのだろうか。大手門が残っている以上、どこかの時期で巽門から大手が移ったと考えられる。 それにしても二の丸と三の丸を同時に発掘調査をするとは、随分力が入っているな。
仙台市教委が実施中の仙台城跡の発掘調査で、三の丸巽(たつみ)門の東側に大規模な堀があったことと、二の丸周辺に上級武士の屋敷跡がそれぞれ確認された。市教委文化財課は、「堀の存在は巽門が城の正面だったとの見方を補強し、屋敷跡は上級武士の生活の一端をうかがわせる」と話している。現地説明会は三の丸跡は28日午前10時半、二の丸周辺跡は同日午後1時半。
2006年11月01日
●木組み遺構だけでもすごいけど
国内初?地下木組遺構確認/深さ5メートル、用途は不明/喜多方の新宮城跡(福島民報)出土例の確認もないということで、まだまだ用途などを含め、不明な部分が多い。普通に考えれば、地下室などに用いるのなら、石組みとなるはずだが、どういう目的と意図で、木組みにしたのだろう。 記事を読む限り、規模といい、木組み遺構以外もかなり興味深い。
会津芦名氏の祖、佐原義連(よしつら)の孫・時連が13世紀に築城したとされる喜多方市慶徳町新宮の新宮城跡で、全国で初めてとみられる地下木組遺構が確認されたことが30日までに分かった。用途は謎で井戸などより複雑な構造。地下室として使用された可能性もある。中世の方形城館の木組遺構としては全国最大級だという。市教委が城跡の範囲調査のため発掘、確認した。市教委は29日に調査指導委員会を設立、貴重な歴史的遺構の残る同城跡の国史跡指定を目指す。
2006年10月31日
●城下町研究か。。。
大村の朝長屋敷跡を発見 戦国城下町を知る手掛かり(長崎新聞)そういえば、指導教授からは城下町研究をやってほしいなんていわれたなあ。 確かに、戦国城下町と近世城下町との違いは何か。連続性の有無。いろいろ、自分自身分かっていない部分は多い。 時間を見つけて論文を探して読もう。
大村市教委は二十七日までに、キリシタン大名として知られる大村純忠らに仕えた重要家臣、朝長伊勢守(いせのかみ)屋敷とみられる建物跡を、同市水田町で発掘した。三城城跡一帯に広がるかつての城下町で、市教委は「城下町の屋敷跡が良好な状態で確認されたのは初めて」としている。
2006年10月29日
●高知3日目
浦戸城
長宗我部の居城。
桂浜にあるということで、本丸推定域は、国民宿舎桂浜荘に坂本竜馬記念館とすっかり様変わり。ひっそりと石垣や土塁が残るだけ。天守台も残っているが、積まれている石垣は、近年積んだもので、当時のものではないそうだ。
それ以外には堀切など、意外に遺構が残っている。
それにしても、桂浜まで来て、坂本竜馬像も記念館も見ずに、帰る集団はそうそういないだろう。
岡豊城
高知県立歴史民族資料館のある山にあった城。かつては長宗我部の本拠でもあった歴史のある城である。
見学コースも出来ているが、コースから外れたところに、連続竪堀群などがあって、なかなか見所のある城。
長宗我部盛親展が開催中、こちらはタイミングよく企画展を見学できた。サン=フェリペ号事件の話は授業の素材にも使えそう。
埋文センターを閉館日なのにわざわざ開けてもらって、これまた企画展の発掘速報を見せてもらう。城郭関係の発掘報告だったが、さっき挙げた安芸市で3月に発見された城については無かったなあ。
これで、高知の城めぐりはおしまい。
案内がある分、見学する範囲もどうしても限られてしまうし、お任せになってしまうから、自分自身の予習も不十分なので、こういった見学会も良し悪し。
2006年10月28日
●高知2日目
須崎台場
よく残った台場。国指定史跡のことだけはある。残念ながら、海と台場の間に鉄道が走り、建物が立ち並んで海を望むこととが出来なくなっている
砲台の切れ目から、タイミングよく通過した列車を撮影しようとしたが、フラッシュを使ったため反応が遅く、失敗。
宿毛城
思いのほか、石垣が残っていた。
あとは、宿毛といえば城郭研究者にとっては中村重遠の生地、これにつきる。生地跡の碑が残っていた。
中村城
総称して中村城とよばれているが、今回訪れたのは為松城。城砦群として機能していたようで、全貌がわかるとなかなか面白そうな城。今回訪れたところはとりあえず、石垣が、目立った遺構となっている。
天守風建築の資料館が建っている。目立った展示もなかったし、資料も販売されていなかった。展望台からの眺望は良好。
バスでの移動だったが、本当にすごい道だった。「どうでしょう」の四国八十八カ所のつらさがよーくわかった。
ホテルに戻ってから、山内家の家臣の五藤氏の子孫の書店で、高知の城下町の解説書と絵図を購入。
そのあと、夜は、「お付き合い」。。。いやあ、いろいろと疲れた。
2006年10月27日
●高知1日目
今日から、高知の見学会。
安芸城
まず、立ち寄ったのが安芸城。土塁や堀が程よく残った城。
城よりは、瓦が一面に埋め込まれた塀や、爆撃から守るために黒く塗られた壁の土蔵など、町並みの方が興味深かった。
そういや、安芸市といえば、3月に高知女子大の院生(62歳・男)が発見した城山はどうしたんだろう。移動のバスで、思いっきり寝てしまったが、その間に説明があったのだろうか。
お昼は、高知市内で。
日本三大がっかりの第2位、はりまや橋の近くで食べた。それにしても、なんではりまや橋が観光名所として有名なのか、見れば見るほど腑に落ちない。
高知城
今回の目玉。非公開の追手門と詰門の内部に入った。こういう機会でないと、入ることが出来ないので貴重な体験。ただし、大勢で入るから思うように写真が取れないのが難点。追手門では小屋造と桁造の組み合わせという貴重な構造を生で見た。
高知城は本丸に天守と御殿の両方が現存する貴重な城。意外に知られていない。
しかし、案内の先生が話したように高知の人は商売っ気がない。功名が辻が放送中というのに、イベントがあるわけでもないし、店が出ているわけでもなかった。高知城の資料や関連グッズさえ手に入らない。挙句、三の丸の工事など何箇所かが工事で見られなくなっている。
そもそも、高知の人にとっては、長宗我部こそが殿様で、山内一豊はよそ者だとか。
残念なのは文学館での企画展にいけなかったこと。
実は生まれて初めて、飛行機に乗った。結構狭かった。
2006年10月26日
●妥当?意外?
彦根城が「近江一の名城」に 滋賀県教委が調査、応募総数の半数以上支持(京都新聞)
滋賀県教委は、近江を代表する46の城を決めた。最も人気があったのは、来年築城400年を迎える彦根城で、応募総数の半分を上回る2560通を集めた。安土城、長浜城、佐和山城(彦根市)、小谷城(湖北町)と続いた。
夏の研究者セミナーのときに知ったけど、すっかり応募を忘れて締め切りを迎えてしまった企画。
1位は彦根城か。安土城ではないのか。やっぱり天守があるというのが大きいか。しかも、国宝だもんねえ。ベスト5に小谷城が入るあたり、けっこう渋い。詳しい結果はまだ教育委員会のページにアップされていないので、気になるところ。
2006年10月25日
●余計なものを置いとくから
しゃちほこ 雄の腹びれなど盗まれる 岐阜・墨俣一夜城(毎日新聞)正直、なんちゃって天守に金の鯱なんて取り合わせじゃ、なんの魅力も感じないのだけどね。2度目という管理の甘さに加えて、そもそも金鯱が必要なのか?という疑問がどうしても出てくる。館長は「展示方法を考えなくては」と話しているが、そもそも、そんなものを展示する必要がないような。
23日午後10時20分ごろ、岐阜県大垣市墨俣町の市営「墨俣一夜城歴史資料館」で異常通報があり、警備員が110番した。県警大垣署員が駆けつけたところ、館内の展示ケースが壊され、純金(24金)の「金のしゃちほこ」のミニチュアの雌雄一対(高さ24.5センチ、800万円相当)のうち、雄の腹びれなどが盗まれていた。ミニチュアは、02年3月に一対が丸ごと盗まれており、現在展示されているのは翌年3月に設置された二代目。同署は窃盗事件として捜査している。
いっそのこと、屋根についてる方を盗むくらいのツワモノは出てこないのだろうか。
2006年10月22日
●せっかく情報入手したけど。。。
昨年も行われた近江中世城跡琵琶湖一周のろし駅伝が今年も開催される。日時は去年と同じ11月23日。
見逃せないイベントなんだが、飛び石になっているから、無理だなあ。彦根だから、当日入りは厳しいので、前日夜には彦根に入ることになるし。
せっかく今回は事前に知ったのに、残念。
来年に期待かな。
2006年10月21日
●価値を理解してもらうのは難しい。
「岸和田」ルーツに危機 岸和田古城跡、建設会社に売却(朝日新聞・関西版)
大阪府岸和田市で、地名のルーツとされる「岸和田古城跡」の土塁や堀跡など、中世の城館跡が見つかった。市教委は「岸和田伝承の解明に迫る遺跡は初めて。重要性は高い」とみるが、土地所有者が継続調査に同意せず土地を売却。市も財政難などを理由に買収に消極的だ。野口聖(きよし)市長には複数の文化財保護団体から保存要望書が届くなど、遺跡の存続を求める声が高まっている。
こうやって貴重な城跡がなくなっていくのか。まあ、岸和田城といえば、あの模擬天守の方が目立つから土地所有者にすれば、「岸和田古城跡って言われても、何もないし、宅地化したほうが儲かる」というところなのだろう。
中世城郭史に詳しい千田嘉博・奈良大助教授(考古学)は「石垣の代わりに土斜面をカットする『切り岸』や堀跡の残りが良い。中世の平城は平地の一等地にあるため多くが宅地開発されており、とても希少」と高く評価する。と、記事中にあるように、貴重な遺構がせっかく出てきたというのにもったいない。この価値を理解してもらうのも、なかなか難しい。
2006年10月20日
●埋めてあるのはなぜ?
『絵図』以前、利長の正室居住初期玉泉院丸 初の遺構 金沢城 慶長期石垣を発見(中日新聞)
石川県が金沢市丸の内の県体育館付近で進めていた、金沢城内にあった玉泉院丸跡の文化財調査で、慶長年間(一五九六-一六一五年)ごろに造られた石垣が見つかった。織田信長の娘で、二代加賀藩主前田利長の正室の玉泉院が当時、住んでいたところで、初期の玉泉院丸の遺構が出るのは初めて。絵図が残っていない初期の金沢城を知る手がかりとしても注目される。(報道部・高橋雅人)
絵図にない遺構が発掘されたというのが興味深い。仙台城でも伊達政宗期の石垣が今の石垣の下から出てきたが、石垣を埋めてしまうのはなぜだろう。再利用した方が効率的だと思うが。強度の問題か、それとも単純に面倒くさかっただけか。今までの例が例外ということなのか。
2006年10月19日
●ついでに安土城もといかないか。
豊臣時代の大坂描いた屏風絵、オーストリアで発見(朝日新聞)<br> 豊臣時代の大坂城や大坂の町並みを描いた屏風(びょうぶ)絵がオーストリアの古城で発見された。作者不詳だが、慶長年間(1596~1615)の大坂の風景を描いたものと推定され、江戸時代前期ごろの作とみられる。研究者らは「非常に貴重な発見。日本に運んで詳細に調べたい」と話している。安土城の屏風が見つからないなか、大坂城の屏風絵が出てくるるとは。
記事の写真は小さくて、肝心の豊臣大坂城のようすはよく分からないが、大阪陣図屏風とあわせて、豊臣大坂城の様子がわかるのを期待したい。
オーストリアにあるとはねえ。安土城の屏風絵もどこか他の国から、ひょっこり出てきた入りしないかな。
2006年10月18日
●蛇足にならないといいけど
姫路城「駒寄」復元へ 城門跡で遺構の柱の穴出土(神戸新聞)
世界遺産・国宝姫路城(姫路市)の城門「喜(き)斎(さい)門」跡で、江戸時代に家臣が登城する際に乗ってきた馬をつないだ柵「駒(こま)寄(よせ)」とみられる遺構の一部が見つかり、姫路市教委は十七日までに、年度内に復元する方針を決めた。江戸時代の絵図に描かれているが、遺構が出土したのは初めて。(佐々木道哉)
年度内とはこれまた、迅速な事業だ。
でも、気になるのは、記事中に
「詳細な史料は残っていないが、できるだけ当時の姿に復元したい」
という姫路城石垣整備委員会委員長のコメント。
せっかく、あそこまで見事に建物群が現存する姫路城に、推定復元をする必要があるのだろうか。なんかもったいない気がする。いわゆる蛇足になりはしないだろうか。
2006年10月17日
●目当ては土のなかだけど。
城郭規模は県内最大級 市教委『深谷城跡』を調査(東京新聞)
深谷市教委は、同市仲町に室町時代から江戸初期にあった深谷城跡の調査結果をまとめた。同時代の城郭としては、県内最大級の規模という。城跡から見つかった漆器や茶道具などの日用品、武士の刀剣の付属品など生活をしのばせる出土品の展示会が二十五日から開かれる。
数日前にも、展示会のニュースが出ていた。ついでに、齋藤慎一さんの後援会の案内もあった。やっぱり行ってみるかな。せっかくの連休だしどこかに行こうかと思ったけど、どうせ前の週の出費で遠出をする余裕もほとんどないだろうし。
惜しいのは堀障子が見られないこと。
2006年10月16日
●どんな特徴だろう?
狩猟用落とし穴と判断 春来山城ケ山跡の縦穴 新温泉町(神戸新聞・但馬版)
南北朝時代に起源があるとされる新温泉町春来地区の「春来山城ケ山跡」で十四日、地元住民や市民グループが、城跡内に残されている縦に掘られた穴を調べた。これまで使途不明とされてきたが、調査に同行した八鹿高校教諭で但馬の遺跡に詳しい西尾孝昌さん(61)により、築城より後の時代に作られた狩猟用の落とし穴と判断された。
遺構の調査は非常に難しい。縄張り研究も主観が入るわけで、どこまで客観性を持たせられるかということになる。縄張り研究における主観と客観という扱いは、夏の全国城郭研究者セミナーでちょっとした議論になっていた。縄張り研究に携わる人の中には、主観という言葉を使われることを嫌う人もいる。いずれにしても、考古学的調査などによる傍証が重要なのは間違いない。
穴の掘られて年代が測定できるのはわかるとして、狩猟用の穴というのはどんな特徴を持っているのだろうか。
2006年10月15日
●で、どんなイベントなんだろう?
金山城跡にも脚光 『全国山城サミット』(東京新聞)
山城がある全国の自治体などが、城跡の整備、保存や活用方法を探る「全国山城サミット」が十四日から二日間の日程で、太田市の新田文化会館などで始まった。今年で十三回目で、東日本では初めての開催。
こんなイベントがあったのか。前も目にしたけど、どんなイベントなのか興味がある。行きたかったなあ。絶版報告書のCD-ROMを先着200名にプレゼントなんて、これだけでも行く価値ありだった。
去年、金山城へ行ったときは、帰りにタクシーを呼ぶのが面倒になって、結局駅まで歩いたなあ。よく歩いたもんだ。
2006年10月14日
●千軒に意味があるのか。
天正大地震の痕跡?杭など発見 長浜の琵琶湖底 地盤沈下で水没(京都新聞)
滋賀県長浜市下坂浜町沖の琵琶湖底にある下坂浜千軒遺跡で、人為的に打ちこまれた杭(くい)6本をはじめ、石材や立木根(枯れた株)など二十数点を発見したと、滋賀県立大の林博通教授(考古学)らの研究グループが14日、発表した。杭の年代分析や文献から、林教授らは「1585(天正13)年11月に起きて長浜城を倒壊させた天正の大地震による地盤沈下と判断できる」としている。
去年の夏に行ったが、すぐ近くに琵琶湖があり、「太閤井戸」の碑がある。ガイドブックには、「干潮時には姿をあらわす」などと紹介されているように、水際にある。実際見に行ったところ、碑の回りは草が生い茂っていて、最近は満潮時でも水没しないようだが。いずれにしても、城内にあった井戸が、琵琶湖に水没するよう内治にあったということは、琵琶湖底に遺構があるのは間違いないだろう。今回はその水没原因が確定したわけだが、今後は遺構の調査を進めて欲しいもの。
まずは、その杭がいったい何に使われていたか。それが気になる。
そういや、広島には草戸千軒町があったが、今回は下坂浜千軒遺跡ということで、千軒っていう言葉になにか関連性はあるのかな。
2006年10月13日
●「系」は曲者
名島城:隅櫓、虎口など発掘 あす、現地説明会(毎日新聞/福岡)<br> 福岡市教育委員会が進めている「名島城」(東区名島)の発掘調査で、近世最古級の城郭の隅櫓(すみやぐら)や虎口などが見つかったことを受けて市教委は14日、現地で説明会を開く。
名島城は豊臣秀吉の重臣・小早川隆景が安土桃山時代に築城した。1588年に着工し、近世城郭の特徴とされる▽高い石垣▽瓦ぶき▽礎石--の三つが備わっていることが既に分かっている。福岡城を築いた黒田長政も一時的に居城として使用したという。
記事中には近世最古級のの城郭とあるが、小早川隆景が豊臣秀吉の命で築城などといういわれがあるので、吸収の織豊城郭系城郭の最古級と言ってもよいだろう。細かい定義でいえば、「織豊期城郭」と「織豊系城郭」は、別ものになる。織豊期に築かれただけの城か、織豊政権の影響を受けての築かれた城かということで、区別される。
ということで、この「系」という言葉が、城郭研究では曲者。武田系城郭なんていうのも、よく使われるが、本当にそういう分類が存在するのかどうかは意見が分かれるところ。
九州は四国と並んで縁遠い地域だ。修学旅行で行ったきり。よくあるコースで、大宰府を見て、阿蘇山登って、長崎観光してというもの。玖珠町でファームステイをして、農業体験のはずが泊まった家が、農業をやっておらず、家庭菜園の手伝いと陶芸くらいだった。
2006年10月07日
●百次もやってたのね。
志波城跡の説明会 8日盛岡で開催(岩手日報)
盛岡市遺跡の学び館が第百次の発掘調査を行っている国史跡志波城跡の説明会は8日、同市上鹿妻の現地で開かれる。調査区は約1300平方メートル。掘っ立て柱建物跡と竪穴住居跡が各1棟出土している。
最近は東北の城柵もいろいろ発掘調査が行われている。政庁機能かねていたりと、蝦夷征討とのかかわりから見ても、非常に重要な城。古代の城柵も自分の研究には大きく関わってくるところ。
それにしても、百次か。ずいぶんとやっていたんだねえ。
2006年10月06日
●注目の古代山城
石列と柱穴跡群出土 総社・鬼ノ城(山陽新聞)
岡山県教委が発掘調査を進めている総社市奥坂の古代山城・鬼ノ城(国指定史跡)で4日までに、掘っ立て柱建物の存在を示す基壇状の石列と大型の柱穴跡群が出土した。城の実務的な管理機能を担った拠点施設の跡とみられている。
鬼の城は大規模な調査が実施中。復元事業も行われており、古代山城としては、今一番注目の城。特に、中心部の遺構が出てきたとなると、かなり大きな発見になる。古代山城の機能を知る上で非常に重要。行ってみたいけど、もう少し調査が進んで復元事業が一通り片付いてからかな。
2006年10月04日
●で、どれにしたのか。
「iPod」で姫路城案内 外国人向けに英語ガイド(神戸新聞ニュース)
姫路市の市民らがこのほど、外国人観光客向けに世界遺産・国宝姫路城の英語版音声ガイドを作成した。11月にもホームページ(HP)を開設して公開し、個人の携帯型音楽プレーヤー「iPod(アイポッド)」に転送したり、iPodを貸し出したりして、JR姫路駅から城へ向かう途中や城内で聞いてもらう計画を進めている。メンバーは「姫路と日本文化の魅力を世界に発信したい」と話している。iPodを利用した観光ガイドは、全国的にも珍しいという。(広岡磨璃)
専用ガイドレシーバーを使っているところは多いが、ポッドキャストが広まったことでこういう方法も可能になったということか。これなら事前に入手できるから、駅からの案内もできるので、総構えなど説明の幅が広がる。
そういえば、天守は「donjon」「castle tower」「keep」のどれになったのだろうか。公開されたら聞いてみるか。もっとも、そこまで辿り着くまで聞いていられるかどうか。そうそも、聞き取れるのかどうかも怪しいけど。
2006年10月01日
●もっと徹底しないと。
高さ規制、お城の天守閣まで 神奈川・小田原市が条例(朝日新聞)<br> 神奈川県小田原市は1日、小田原駅と小田原城がある中心市街地の高さ規制を強化した。現在、エリア内で最も高いお城の天守閣を超えてはならないことになる。小田原城をランドマークとして大切にするのはいいが、天守と同じ高さだと、結局隠れてしまうような。「天守台の高さまで」くらいに設定して、天守がある程度確認できるようにしないと。詰が甘いような。
確か姫路城周辺にもあったが、何メートルだったかな。少なくとも、天守と同じというわけではなかったはず。
2006年09月30日
●復元事業は無理だろうけど。
臼杵市立図書館の古地図 「最古級の江戸全図」 広島大助手の調査で判明(西日本新聞)
臼杵市立図書館が所蔵する古地図「江戸全図」が、1643(寛永20)年の江戸城下を描いたものであることが、広島大学大学院工学研究科の金行信輔助手の調査で分かった。県立先哲資料館(大分市)が29日、発表した。
1644(正保元)年の様子を描いたとされる「正保江戸図」以前の図で、しかも正保図よりも記載内容が詳細というから、これはかなり貴重。国立博物館の企画展示「日本の城」でも、江戸城関連の展示が出ていたが、こういった発見というのは誘われるように出てきたりする。
まあ、いろいろ発見があったところで、江戸城だけは復元事業が行われることはないだろう。
2006年09月25日
●有料化開始。
今月から、安土城が有料化になった。
有料化の情報を得た掲示板にレポートが載っていた。
気になる拝観料は500円とのこと。入場料ではなく、拝観料。総見寺が管理・徴収しているので拝観料なのだろう。
で、開園ではなく開山時間は、9時から17時だそうだ。しっかり門が閉まっていて登れないらしい。拝観料を徴収する以上、こういった対処をするのだろう。
これまでだと、大手から登って、百々橋口から出るというルートだったが、しっかり封鎖されていて、羽柴秀吉邸あとへとまわる迂回ルートが用意され、大手から出るようになっているそうだ。縄張図には載っているが、名城を歩くを見ても、一部道が書かれてあとは山林で登城ルートにはなっていなかったので、おそらく有料化の際にルートとして整備しなおしたのだろう。
なんとも、せちがらい気もするが、せっかくだから本来の位置に総見寺を戻して、発掘調査と復元に力を入れて欲しいものだ。
2006年09月24日
●地層の博覧会?
大阪・難波宮跡 「夏の陣」焼土層など出土、南西に古代~近世の6層(読売新聞)
大阪市中央区の難波宮跡(7~8世紀)の南西で、宮殿造営や大坂城築城などで何度も谷を埋め立てる大規模な整地が行われていた状況が明らかになり、市教委が20日、発表した。大坂夏の陣(1615年)での焼土層も含む6層の地層が鮮明に確認でき、専門家らは「大阪の土地利用の実態を知るうえで貴重な成果」としている。
ここまで見事な地層は面白い。彦摩呂風に言えば、「地層の博覧会や~」ってとこか。
大坂城に隣接するNHKと資料館の入っているビルの地下には、難波宮跡が残っており、難波宮と大坂城の領域に重なる部分があるのは間違いない。石山本願寺もここに構えて、織田信長が攻略に苦労した。防御に適した立地をしているというのが伺える。
住宅整備に伴う発掘調査ということだが、どうするのだろうか。何らかの形で保存して欲しい。
2006年09月23日
●こんなところに城郭建築
横浜三溪園に行った。
内苑にあれだけ、安土・桃山の城郭関連の建築があるとは知らなかった。
庭園として訪問している人は多いが、城郭建築を目当ての人は少ないだろう。
というか、途中で見た桑田の巨人退団宣言には驚いた。もしや、来年は。。。
2006年09月20日
●通説の根拠は?
筒井時代の伊賀上野城 寛永まで残っていた(伊賀タウン情報YOU)
安土桃山時代に大名筒井定次が築城した上野城の天守が、次の城主藤堂高虎が1611年(慶長16年)に新天守を築いた時に取り壊されず、寛永年間(1624~1644)まで残っていた可能性が高いことが分かった。
伊賀上野城内には筒井古城跡があり、藤堂高虎が伊賀上野城を築城した際に、廃城になったとされてきた。当然、天守も取り壊されたと考えられてきた。ところが、記事によると、藤堂藩史の『宗国史』の寛永10(1633)年8月3日に大風のため天守が倒壊したという記述が見つかった。藤堂高虎の天守は未完のまま倒壊し、再建されなかったとされていることから、倒壊した天守が筒井古城の天守では?ということになり、寛永年間の絵図にも本丸東の筒井古城に3層の天守が描かれていることから、可能性が高まったということだ。
しかし、すでによく知られた史料から、こういった新たな可能性が出てくるところに、研究の深さがある。逆に言うと、今までの通説はどういう根拠で、出てきたのだろうか。気になる。特に「絵図の3層天守をどう解釈していたのか?」ここが疑問。
2006年09月16日
●誤読というか。。。
今日届いた会報に、先月行った発表についての記事が出ていたのだが、発表内容の紹介が間違っている。
発表した事項を適当につなぎ合わせただけの様子。質疑応答で話すことに考えがいってて、実際の発表をあまり聞いてなかったんだろう。質疑応答でうすうす感じてはいた。とはいえ、発表後に落ち着いて記事は書けるんだけどね。
まあ、発表のタイトルからして微妙に間違ってるので、レジュメも禄に見ずに書いたんだろうなあ。そもそもレジュメを見て書いたら、あのようなつなぎ合わせは出来ないはず。以前教えてもらった「発表講座」を参考にして、そのまま論文にしてもいいような構成にしたから、各章の概要を順番につなげればいいのだが、わざわざ順番を変えてるから、内容が違ったものになっている。自分が指摘していないことまで、指摘したことになっている。発行がいつもより早く、締め切りギリギリで書いたのだろうが、やっつけ仕事の感はぬぐえない。
確かに、質疑応答での意見には、参考にすべき部分もあったが、なんか違うなという指摘があった。その場で完全に理解するのは難しいのは当然なのだが、こういう記事を見ると残念。
2006年09月13日
●これは大発見。
徳丹城跡から木製兜 矢巾町教委が発掘(岩手日報)<br> 矢巾町教委が、今年4月から進めている同町西徳田の国指定史跡徳丹城跡第65次発掘調査で、井戸跡からほぼ完形品の木製兜(かぶと)が出土した。井戸水をくむ水おけとして転用されていた。徳丹城が機能していた9世紀前半ごろのものとみられる。徳丹城跡調査指導委員の平川南・国立歴史民俗博物館長(日本古代史)によると、9世紀の木製の兜が完形品で見つかったのは全国で初めて。これまで空白だった当時の武具の実例として、日本の武器史、軍事史上、貴重な発見といえる。13日、同町教委が報道機関に公開した。
そういわれてみれば、中世の甲冑などは見たことがあるが、古代の武具は知らない。
『日本三代実録』の元慶の乱に関する元慶5(881)年4月25日条の記述に「革短甲、冑、鉄鉢、革鉢、木鉢」とあり、これがその「木鉢」であれば、大発見だ。東北地方は、蝦夷征討の拠点として、古代の城柵が多く、こういった発見をきっかけに注目を集めて、調査が進むことを期待したい。
いつも言ってるなあ。
2006年09月10日
●たまには台場も。
横浜港で幕末砲台の石積み発見・保存求める声も
(共同通信)
横浜港開港翌年の1860年、海防拠点として同港沖に築かれた砲台「神奈川台場」の石積み遺構の一部を市民団体がこのほど、発掘調査で見つけた。全体がほぼ完全な状態で埋蔵されている可能性が高く「開港史の証人」の復元、保存を求める声が上がっている。
たまには、台場を。もしかすると、中世城郭以上に注目は少ない。今回の調査も教育委員会ではなく、市民団体に任せてあるというところにも表れている。若狭では台場の復元がなされていて、先月の城郭研究者セミナーでも発表があったが、、まだまだだろう。こうやって、遺構が出てくると、実態が分かってきて、研究も一気に進むかもしれない。
2006年09月09日
●今までの解釈は?
築城後、外側に石垣拡張か 博物館、徳島城の本丸を分析(徳島新聞)
徳島藩祖・蜂須賀家政が一五八六(天正十四)年に築城した徳島城の本丸の石垣が後に外側へ積み増しされた可能性があることが五日、徳島城博物館の分析で分かった。同館は、築城当初の石垣の外側に新しい石を積み直し、本丸を拡張したのではないかと推測している。徳島市教委は今後、拡幅を確認するため、石垣内部の発掘を検討している。
石垣に継ぎ目が見つかったことから、今回の可能性が明らかになったようだ。ただ、もともと東側と西側では積み片が違っていたわけで、実際の石垣を見ていないから分からないのだが、今までその違いをどのように解釈していたのだろうか。
和歌山城など、城内にいろいろな積み方が見られる城はいくつかあるが、よく調査すると拡張などがあるのかも。
2006年09月03日
●新幹線のおかげ?
金沢城・河北門二ノ門、規模が判明 50分の1縮尺図見つかる (北國新聞社)
金沢城河北門を描いた絵図が金沢市内の会社役員宅から見つかり、石川県教委金沢城研 究調査室が鑑定した結果、河北門の中心をなす「二ノ門」を五十分の一の縮尺で記録した 立面図であることが分かった。これまで確認されている百五十分の一以下の河北門絵図で は、石垣の高さや門の幅などは推測の域を出なかったが、この立面図に記載された寸法か ら正確な規模が特定できることになった。県は来年度から着手する河北門整備に絵図を採 用し、より忠実な復元を目指す。
新幹線開通にあわせて復元事業を始めている金沢城にとって、非常に大きな資料が見つかった。もちろん、城郭史研究でも非常に貴重な資料である。寸法が記入されているだけではなく、各部の意匠、金具の形状まで記されているというのは、なかなか興味深い。
こうした発見があるのも、復元事業、はたまた新幹線開通の副産物といえるのかもしれない。
2006年08月30日
●石垣ばかりの…
富山城の鏡石 加賀藩の石工が改修 富山市埋文センター調査 金沢城の組み方と共通点(富山新聞)
江戸時代初期に築かれて以来、富山城の石垣に組み込まれていた巨石「鏡石(かがみい し)」が二十九日、石垣の改修工事に伴い取り出された。鏡石は薄く切られるなど高度な 技術で加工されており、調査に当たった富山市埋蔵文化財センターは「熟練した加賀藩の 石工(いしく)が石垣を改修したことが裏付けられた」としている。
GW中に行った時に工事中だった富山城の石垣は調査の結果、いろいろと判明してきている。石垣の研究というのも、なかなか面白そうだが、いかんせん発掘調査がないと難しいうえ、積み方になると土木に関する知識も必要になってくるから、ハードル高いなあ。石塔の転用あたりはいくつか論文も見られるけどねえ。
石垣といえば、オオカミ少年の
「石垣ばかりの小田原城、カタカナばかりのオダギリジョー」
が気になってしまう。ゴロがあるから小田原城なんだろうけど、なんで石垣にしたんだろう。
2006年08月29日
●こんなところに有料化が。
なんでも、安土城が今秋から有料化になるらしい。
某掲示板(2chではない)にあったのだが、総見寺の名で張り紙がされていたとのこと。具体的にどこからどこまでが有料なのかは不明。そっか、あそこは総見寺の管轄なのね。せっかく有料化するんだったら、本丸とかのもう少しすっきりさせて欲しいもの。
まあ、総見寺へのお賽銭、拝観料とでも考えればいいのかな。でも、いくらなんだろう。
久しぶりに、ビョウブログ見たけど、更新少ないなあ。しかも、ウチもやられたコメントスパムを食らってるし。
2006年08月26日
●仕事納め???
今年最大の「仕事」が終わった。
出来はまずまずか。
まあ、まったく押さえていなかった訳ではないんだけど、発表の中で織り込むほどでもなかったので、省いたとはさすがに言えないわな。
基準となる部分への考え方に隔たりがあるから、そこが難しい。話を聞いた2人でも見解が違うし。
2006年08月23日
●城郭後進県?
宮津城の石垣など出土 京都府埋文研が調査(京都新聞)
京都府宮津市鶴賀の大手川改修工事現場を調査している府埋蔵文化財調査研究センターは23日、宮津城の城壁石垣などの遺構が見つかったと発表した。
まだまだ、石垣などが発掘されるもんだねえ。そういえば、京都には中世城郭で国指定の史跡は無いそうだ。宮津城自体は近世城郭だけれども、京都は寺社ばかりが重視されて城郭に関する調査や保存などは後回しになっているのかも知れない。
2006年08月19日
●浜松城
清洲城の後は、名古屋駅で昼食を済ませて、浜松へ。
今回の目的は、浜松市立博物館で開催中の企画展「はままつの城」。
浜松氏が市町村合併で拡大したことで100を超える中世城郭が市内に存在するようになり、それらを紹介するもの。織豊期城郭研究会の加藤さんが慣習をしているようで、縄張図、復元図がふんだんに使われたこじんまりはしているけどなかなかしっかりした展示だった。
博物館のあとは浜松城へ向かう。
前回訪れたのは、もう10年以上前になる。立派な市役所が出来て、すっかり周りが変わってしまった。城址公園自体が変わったことはないけど、天守の中に井戸が見られるようになっていた。残念ながら、展示品がいたって地味なのは同じだった。
浜松市立博物館からの移動で疲れ果ててしまった。天守入り口にあった冷たいおしぼりはありがたかった。
浜松と言えばやはりうなぎということで、夕食は2日続けてうなぎに。八百徳に入ったのだが、名物の鰻御櫃茶漬けは、昨日ひつまぶしを食べたばかりなので、うな重にした。
●清洲城
ホテルを出てまず、清洲城へ行く。
清洲城の天守は、東海道本線&東海道新幹線からの見栄えは抜群だけど、立っている場所は本来の場所ではないし、なんちゃって天守。
とりあえず、本来シロのあった古城跡と信長像のある清洲公園、清洲本陣跡などをぐるっとまわる。一通り、歩いてみてまわって、1時間45分。そんなに歩いてまわったわけではないけど、いやぁ熱くて疲れた。
昼は矢場とん探して味噌カツでもと考えていたけど、疲れて食欲がわかずきしめんに。
2006年08月18日
●岩村城
今日は岩村城へ行った。
日本三大山城の1つというだけあって、なかなか見ごたえ登りごたえがあった。本丸から出丸の売店が見えたので、下山の水分補給をしようと、遠回りしたら、売店は閉まっていた。とんだ無駄足に。
岩村駅から岩村城へ向かう道は街並み保存地区ということで、昔ながらのたたずまいを見せている。信金や郵便局も外観は昔の街並みに合わせたつくりになっている。
岩村城からの駅へ戻る途中で、「かんからや」でお昼を食べた。
岩村城のあとは徳川美術館へ。「天下人の時代」という企画展が開催中名のを2週前に全国城郭研究者セミナーへ電車の中吊り広告で見ていたので、寄ったわけだが、併設の蓬佐文庫で「国絵図・城絵図」の企画展をやっていたのでさらにお得だった。
今日は名古屋泊ということで、夕食は恒例のひつまぶし。
明日は清洲城と浜松城・浜松市立博物館。博物館が今回のメインだったりする。
2006年08月13日
●一番乗り
今日まで全日本クラブ選手権が足利で開催された。
なぜか辞退をしなかった茨城GGが出場した関係で、昨年に続きマスコミにも大きく取り上げられ、注目度も高かった。
結果は和歌山箕島球友会が優勝。
GG自体は昨日の準々決勝で敗退しているが、なかなか面白い試合が多かったようだ。しかも、昨年は都市対抗出場しクラブ選手権も制したNOMOクラブが敗れるなど、クラブチームのレベルアップは目覚しいものがあったように感じた。
なお、今年からクラブ選手権優勝チームには、日本選手権出場権が与えられるため、都市対抗開幕を前にして和歌山箕島球友会は日本選手権出場一番乗りになった。早いなあ。
2006年08月11日
●復活。
来年4月1日オープン 伏見桃山城運動公園(京都新聞)
京都市は10日、スポーツ施設として整備を進めている「伏見桃山城運動公園」を、来年4月1日に開園すると発表した。管理運営は指定管理者制度を活用して民間事業者に委ねる。伏見城を模した同公園のシンボル「天守閣」の活用方法について、管理者を選ぶ過程でアイデアを募る。近鉄の関連会社が経営していた遊園地・伏見桃山城キャッスルランドが、経営不振で2003年1月に閉鎖されて以来、装いを変え4年ぶりに再登場することになる。
あの「落城」した伏見桃山城が、復活するのか。所蔵資料は一級品が揃っているというだけに、ありがたい話ではある。伏見城には閉鎖になった直後に行ったんだけどね。(あれ?これってオフレコだったか。。。)
ただ、経営がうまくいくかとなると怪しいので、復活したらなるべく早めに行ったほうがいいな。
2006年08月10日
●創造主?
やった。
諏訪湖が出来た!!
って、白地図での話し。
KenMapで分布図を作ったのはいいけど、長野県に諏訪湖がなかった。説明上、必要なのでなんとかプラグインを作って作成。
2006年08月06日
●全国城郭研究者セミナー2日目
今日は2日目。
シンポジウムの続き。
個人的には分布からのアプローチというのには興味があったので、わざわざ木津まで遠征することに。発表者が西日本に偏っていたのがちょっと残念。
境目の城の扱いに突込みが入っていた。境目と言っても、その地域は領主の入れ代わりが激しい地域。ただ、奪い合いがあるから境目の気がするんだけどなあ。確かに発表者は奪い合いがある可能性を考慮に入れていなかったから、その辺もあわせて考察すれば面白いと思う。もっとも、自分の研究でも境目は登場するわけで、どう扱おうか。
全般的には、縄張などパーツに関わる分布が中心で、城館配置などによる城郭戦略とかそういった話にはならなかった。まあ、縄張研究者が主体のセミナーだから仕方ないのだけれども。
帰りは本当に一苦労。
そうそう、朝セミナー会場へ向かうのに、伊賀上野で近鉄線からJRへ乗り換えたときのこと。近鉄を降りると、JRのホームに加茂行きの電車が入線している。あわてて乗ると、程なく発車。事前に調べた乗り換え案内だと、「移動4分待ち17分」のはずだったのが、実際には1分もあれば移動できるので、間に合ったようだ。
発車し始めたのだが、急に電車が止まった。運転手が2人組の女性と話して、ドアを開けた。おそらく同じように、乗り換え案内で調べて、まだ発車しないとでも思ったのか乗り逃したようだ。ディーゼルカーのワンマン運転ならではの出来事。「田舎のバスかい!」と突っ込みたくなった。
2006年08月05日
●全国城郭研究者セミナー1日目
今日から2日間は全国城郭研究者セミナー。
いきなり中井均さんの発表で、個人的にはものすごい興味深い史料の存在を知る。また、シンポジウムのほうでは、岡寺良さんの発表もなかなか面白かった。
図書交換という名の即売会では、いろいろ買ってしまった。とりあえず、化石と一緒に自宅へ宅配便で送った。
しかし、木津は不便。明日帰るのも結構たいへん。
電車の本数が少ない。しかもディーゼル車。往復切符で買わなければよかったと、今更ながらに後悔。京都回りにしたほうが、料金はかかるけど本数も多くて、早く帰り着いたのに。
2006年08月04日
●伊賀上野城
次いで向かったのが、伊賀上野城。
まず、今日から宿泊予定のホテルにチェックイン前だけど、荷物を預かってもらってから伊賀上城へ向かった。
西小学校(亀山城と偶然一緒)がレトロな趣でびっくり。
藤堂高虎の築城で、日本で二番目の高さの高石垣で有名だが、たしかに上から覗き込むとなかなか怖い。天守は復興天守なのだが、昭和初期に木造で建築されたという貴重なもの。最上階の天井には横山大観の絵があったりする。
天守の後は、城代屋敷となった筒井古城天守跡へ向かう。こちらは木がうっそうとしていたが、市街地側と本丸側は切り開かれていて、眺めはなかなか良かった。
その後は、伊賀といえばで、忍者屋敷へ。本物の忍者ならありえない蛍光色のくのいちが案内してくれる。地下で流れている忍者の戦い方を紹介したビデオをみると、さっき行ったばかりの筒井古城がロケ地だった。
その後は松尾芭蕉記念館とだんじり会館を回って、歴史民族資料館へ。
すると、最近出土した化石の紹介が特別展示されていた。今日は研究員が案内役に来ていて、いろいろ説明してくれた。でもって、ここでは「学生さんですか?」と聞かれて、「高校で教師をしています」と答えると、「じゃ、教材にでも」とイガタニシの化石をくれた。ただ、結構大きくて重い。。。貴重なもので、大変ありがたいんだけど、旅先だけに扱いに困ったり。
●亀山城
明日の全国城郭研究者セミナーのため、関西方面へ。
まず、亀山城へ向かう。
道が良く分からないのと時間が読めないこともあって、天守台跡までタクシーで行ったのだが、近いこともあって、運転手は不機嫌。
天守台に立てられた多聞櫓は、三重県内で唯一の現存する建造物なのだが、残念ながら施錠がされていて、残念ながら中には入れなかった。
早々に切り上げて、歴史博物館へ向かう。
博物館を後にして、遺構を見てまわる。
二の丸帯曲輪を下から見上げていると、「二の丸ですか?」と上の道路から声をかけられた。どうやら二の丸帯曲輪に入る道があるそうだ。次に「車ですか?」と聞かれて、歩きだと答えると、車へ乗せてもらった。で、無事に二の丸帯曲輪に辿り着き、最近発掘された埋門跡も見ることが出来た。
簡単に乗って大丈夫かと不安になったが、話を聞くと二の丸を占めている西小学校の先生だそうだ。しかも、どういうわけか、「先生ですよね」と言われた。誰と勘違いしたんだろう?
駅前で「テレビでおなじみ」らしい、しぐれ茶漬け弁当を買った。何のしぐれか分からないまま買ったのだが、桑名の蛤だった。貝は苦手なのだが、濃い味付けであまり貝の味がしなかった。なにより、伊賀上野に向かう車中で食べようと買ったのだが、肝心の電車がロングシートで食べづらいのなんの。
2006年08月03日
●学割が恋しい。
明日は、週末の全国城郭研究者セミナー参加のため出発。当日入りは難しいので、前日入りになる。
夏休み中の週末ということで、宿が取れずに伊賀上野に宿泊することに。ということで、明日は通り道の亀山城と伊賀上野城を見てまわる予定。
やっぱり、学割がないのは痛い。
2006年07月29日
●行ったそばから出てくるな。
金沢城本丸の完成 通説より前 県教委の盛り土調査で判明 10年早い元和期整備(中日新聞)ゴールデンウィークで行ったばかりの金沢城で新たな発掘成果があった。絵図にも残っていない元和期の盛り土が発掘されたということで、かなり早い時期に本丸は整備されていたようだ。
金沢城(金沢市)の本丸が現在の構造になったのは、元和期(一六一五~二四年)の大規模な造成によることが、石川県教育委員会文化財課金沢城研究調査室の調査で明らかになった。本丸はこれまで、一六三一(寛永八)年の寛永大火直後の再整備で完成したとされていた。今回の調査結果はこれを約十年さかのぼり、初期の金沢城の実態解明につながりそうだ。
金沢城の場合、城址としての整備もまだまだ始まったばかりといえるので、これからいろいろ出てくるんだろう。
金沢城といい、富山城といい、福井城といい、行ったそばから出てくるなあ。
2006年07月28日
●ちょっと大げさかな。
国立博物館へ行く。
集中展示の「日本の城郭」が目的。東京新聞の記事を見て気になっていったのだが、日本の博物学コーナーのみの展示で、「日本の城郭」と銘打ったにしては若干物足りないか。
ミュージアムショップでは、他館の図録も売られていて、「葛西城」を購入。「安土城・1999」も気になったのだが、去年安土考古博物館へ行ったときに購入済みの恐れがあったので、やめておいた。
実は、国立博物館へ行くのは初めてだった。
2006年07月26日
●夜景は怖い。
おぼろ烏城 「灯源郷」試験点灯(山陽新聞)城の夜景をよく撮りに行く。うまく撮れると、これがなかなか綺麗なんだが、撮りに行くまでが結構怖い。自分が今いる場所が分からなくなったりするし、堀端を歩いていると、たまに柵がないところがあって落ちるんじゃないかと思ってしまったりする。そういや、広島城では、カップルが結構いてビックリした。
岡山城(岡山市丸の内)の夜をろうそくの明かりで演出する初の「烏(う)城灯源郷」(8月5~15日)の開催に向けた試験点灯が25日夜、天守閣前広場などで行われ、辺りは幻想的な雰囲気に包まれた。
岡山城の夜景も撮ったが、これもなかなか怖かった。ただ、門が閉まっていて、記事に掲載されているよう本丸広場からの撮影は出来なかった。
今年は伊賀上野に止まるけど、伊賀上野城の夜景撮影どうしようかな。場所が場所だけに、暗闇行くと忍者に襲われるなんてことが、、、あるわけないか。
2006年07月25日
●再建というよりは
西尾城の天守再建へ 都市計画決定(中日新聞)とりあえず、いろいろ再建へ向けて動いているようで。でも、「再建」では無いんだよね。復興天守、そんな感じにしかなりそうにない。まあ、記事を読む限り、木造復元の他の天守を調査したりと、それなりに頑張っているようだ。
西尾城再建友の会の第2回会議が24日、西尾市役所で開かれた。本物に近い城造りの資料収集と調査、研究や西尾城跡地全体の保存、整備を都市計画決定し、その中に天守閣再建を位置づけることを確認した。
2006年07月23日
●危機一髪だったんだねえ。
姫路城天守閣に焼夷弾が直撃、不発 1945年7月(神戸新聞)姫路城天守を狙わなかったことを感謝、なんて思っていたけど、まさか焼夷弾が直撃していたとは。
一九四五年七月の姫路空襲で、姫路城天守閣に焼夷(しょうい)弾が直撃したものの、不発だったために、炎上を免れていたとみられることが二十二日、当時、不発弾処理にあたった元士官の証言で明らかになった。天守閣の戦災被害は記録にはないが、元士官から手記の寄贈を受けた姫路市平和資料館は「これまで知られていなかった逸話」として、関心を寄せている。
やはり、日本の城が戦火を逃れたのは、奇跡的だったんだなと改めて実感。せっかく、明治維新の取り壊しを逃れて残っていた貴重な城の多くが爆撃によって焼失している。そんななかで、姫路城が残ったのは幸運という話だったが、強運がこれほどまでとは。
城という文化のないアメリカ人には日本の城のすばらしさが理解できないなんて話を聞いたけど、確かに理解していれば、貴重な文化財を破壊するんなんてことはなかっただろう。
2006年07月16日
●一本道じゃないけどね。
冠木門前に土橋と堀が見つかる 岐阜公園・信長居宅跡(中日新聞)岐阜城では、最近信長の居館の発掘調査が進められていた。どちらかというと、安土城に通じる一本道の存在ばかりに目がいっていたが、思わぬ成果があがってきた。
岐阜市は13日、岐阜公園に残る織田信長居宅跡付近の試掘調査の結果、公園内の冠木(かぶき)門前に土橋と堀が見つかったと発表した。同所から出土した陶器類は戦国期のものが多いことから、市教育委員会社会教育室は「道三、信長の戦国時代にできたと推定され、近くに建物もあったのでは」と分析している。
岐阜城といえば、ナイトスクープの岐阜城を攻め上るを思い出す。さすがに登る気力が起きない。まあ、前回夏にいったせいもあるから、夏じゃなきゃなんとかなるかな。ケーブルカーの料金の高さを考えると、攻め上るのも1つの手だけど。
2006年07月12日
●建てればいいってもんじゃあ、、、
沼田城再建目指し「市民の会」設立へ 市観光協会(東京新聞)
沼田市西倉内町の沼田公園(沼田城址(じょうし))に五層の天守閣を備えた沼田城を再建する構想で、沼田市観光協会は本年度中に再建を目的とした「市民の会」の設立を目指す方針を決めた。
前にも書いたけど、本当に天守があって、忠実に復元できるのか。そこに尽きるんだけどねえ。真田氏時代にあったという五重の天守を建てるつもりなんだろうけど、現在残っている天守台の上にあったのかどうかすら定かでない。正保の城絵図だと三重天守となっているから、そこに真田氏時代に五重の天守が建っていた保証は無い。
アンケートでは約6割が賛成だという。どうしても建物がないと、「お城っていっても何も無い」というようにしか普通の人は思わないから、一番お城として分かりやすい天守を建てるというと、それなりに盛り上がるは仕方が無い。ただ、根拠の無い「なんちゃって天守」だと、結局のところお荷物に成り下がってしまう。桃山城みたいに、所蔵資料は一級品だけど、遊園地とセットのなんちゃって天守のせいで、閑古鳥で「落城」なんてことにだってなりかねない。
2006年07月10日
●やっと出てきた。
東大路の一部か/秋田城跡で奈良後期の道路発見(秋田魁新報)
秋田市寺内の国指定史跡・秋田城跡で、政庁東側から奈良時代後期とみられる道路遺構の一部が見つかった。外郭東門と政庁東門を結ぶ「東大路」の一部とみられ、大路はほぼ直線に造成されていたことがあらためて裏付けられた。市教育委員会秋田城跡調査事務所は8日、現地説明会を開催する。
秋田城跡 「酒所」土器が出土 平安前期「東大路」も5平方メートル確認(読売新聞)
秋田市教委は8日、同市の国史跡「秋田城跡」で行っていた発掘調査で、「酒所(さけどころ)」と墨書きされた平安前期の土器が出土したと発表した。「酒所」は、当時の地方官庁である城に一般的に置かれていた酒造施設を指し、そこで使われていたとみられる。市教委は「コメで今と同じように酒を造り、城を守る兵士が防寒用に飲んだり、役人に支給されたりしたのではないか」と分析している。
ついこの間まで、「東大路が出てこない…」と教育委員会が焦りまくっていた秋田城で、東大路が出てきたとのこと。とりあえず、奈良時代のもので、平安時代のものは江戸期の開墾で削り取られてしまったようだ。
古代の東北の城は、軍事施設と同時に政庁としての役割も果たしていたので、城郭の構造は興味深い。しかも、秋田城はこの前のエントリで書いたように、城域の外から烽火台跡がでたなんて、報告もあったくらいだから、ぜひ全容解明といって欲しい。
2006年07月07日
●あの工事から。
慶長期に作られた梅鉢紋入りの瓦見つかる 富山城の土中から 前田利長が用いる? (富山新聞)
近世富山城築造当時の一六〇五(慶長十)年ごろに製作されたとみられる、前田家の家 紋「梅鉢紋」が入った瓦が、石垣上の土中から六日までに見つかった。加賀藩から富山藩 が分かれる前の慶長年間に作られた梅鉢紋瓦は、これまで金沢城でも出土していない。
ゴールデンウィーク中に行った富山城で行われていた石垣工事で発掘成果があった。瓦の研究は、結構進んでいるようだが、まだまだ面白い発見がありそうだ。
このほかにも礎石が見つかるなど、改修工事のはずがいろいろな発掘成果が出てきている。単に外観を良くする以上の大きな成果が出て何より。
2006年07月06日
●大注目ニュース!!
信玄の狼煙台跡を確認(南信州サイバーニュース)
戦国時代まで、高森町の吉田山近くの茶臼山にあったとされる「武田信玄の狼煙(のろし)台」が、このほど同町内の郷土史研究家3人の現地調査で確認された。山頂一帯には小規模ながらも「主郭」と「2の郭」と、その間にも壕が発見された他、壕の中間で狼煙を上げた跡も見つかった。戦国時代まで伊那谷は武田氏の支配下に置かれ、今回確認された狼煙台は信玄が当時の松岡氏に命じて造らせたものだという。
発表を間近にして、見逃せないニュースがきた!!
記事からだいたいの場所は特定できたが、見通しなどのチェックはこれからしっかりやってみよう。ただ、記事で言うと、のろし台としている根羽村の杣路砦、阿智村の駒場城、飯田市の茶臼山城、喬木村の富田城は、『中世城館報告書集成』では、のろし台としていなかったので、リストアップしていなかった。この辺も検討の対象。
ひさびさにのろし台リストを見た。最近余裕がなかったからなあ。
記事には「図で示したように」とあるので、おそらく紙面には何か図が掲載されていたと思われる。その図が気になる。
2006年07月04日
●テル??
八王子城PRに『うじてるくん』 市職員がキャラクター作製(東京新聞)
八王子市は、八王子城(同市元八王子町三)が、今年二月に財団法人・日本城郭協会による「日本百名城」の一つに選ばれたのを受け、同城をPRするマスコットキャラクターを作製した。
キャラクターって、、、盛り上げたい意気込みは伝わるけど、城のPRになるんかいな。
そういえば、北条氏照を
「ほうじょうし・てる」
と呼んだ人がいた。なるほど、そう読むか。言われてみれば、そう読みたくもなる。
2006年07月03日
●いいね、こういう本格調査。
鬼ノ城の謎、7年かけ本格発掘へ(中国新聞)4月にもニュースになっていた鬼の城の本格調査が始まった。古代の城でここまでの本格的な発掘調査を行うのはなかなかないこと。古代山城は分からない部分も多いので、期待したい調査。
岡山県教委は三日から、総社市の国史跡の山城「鬼ノ城(きのじょう)」で、初の本格的な発掘調査に着手する。県内の桃太郎伝承では鬼ケ島になぞらえられるものの、日本書紀や古事記に記述はない。だれが、いつ、何の目的で築城したのか―。二〇一二年度まで七年がかりの調査で、「謎の城」の全容解明に取り組む。
鞠智城などを見ても、なかなか古代の城も面白そう。
でも、発掘調査も行わないうちに、復元事業が進んでいるのはどうなんだろう。。。
2006年07月01日
●結局どうなったんだろう?
現在、秋田城の発掘調査が行われていて、7月8日に現地説明会があるそうだ。
これまであるとされてきた東大路が見つからないなど、想定外の結果もあるとのこと。
そういえば、以前秋田城の外から見つかった烽火台あとは結局どうなったんだろう。初出の『奥羽考古』の記事以降というか、それ以外に確認できない。
まあ、古代の烽火の研究はひと段楽したとはいえ、気になるところ。
2006年06月25日
●いろいろ出てくるなあ。
第六小で武家屋敷跡発掘 高知市(高知新聞)
高知市教委は23日、第六小学校(同市升形)内の金子橋遺跡から実用品や高級陶磁器など3200点余りが出土したと発表した。「江戸時代の武家の暮らしぶりがうかがえる」という。城下町の武家屋敷跡が本格的に調査されたのは、県内では初めて。
城郭のそのものの調査に比べると、どうしても行われることの少ない城下町の調査。すでに、都市化が進んで、消滅している遺構も多いはず。
それにしても。高知城はここのところ、いろいろ出てくる。10月に行く予定だけど、楽しみ。
2006年06月24日
●気になるイベント
小田原で国内の城下町サミット、世界サミット控え(日経新聞)
国内10市の市長や市民が集まる「城下町都市会議」が7月28―30日に神奈川県小田原市で開かれる。地域の歴史的文化資産を活用して街を活性化させる狙いから、各首長や市民が意見交換したり交流したりする。小田原市は来年11月に「世界城下町サミット」の開催を計画しており、その国内版と位置づける。
タイトルだけ見て、結構気になったイベント。
どうやら、単に観光都市としての城下町のあり方がメインのようだから、そこまで期待はできそうにないな。
それより、全国城郭研究者セミナーをどうするかだ。
今年の開場は京都。それも木津町。テーマは個人的に関心のあるものだけに、うーん、悩む。
2006年06月22日
●さらなる発見
土塁跡から防御用?杭列 松本城、全国でも2例目(中日新聞)
松本市教育委員会と松本城管理事務所は20日、発掘調査を進めていた「同城総堀土井尻土塁跡」の調査結果を発表、土塁跡を報道陣に公開した。調査では、土塁跡から防御用とみられる杭(くい)列などが見つかった。25日午後1時から3時まで一般に公開される。
先日見つかった松本城の土塁から、更なる発見が。全国2例目という貴重な遺構で、松本市が買い取るだけの価値のある成果が出てきた。総構研究にも大きな影響が出てくるかもしれない。
見たいのはやまやまだけど、仕事のことを考えると、そんな余裕はないなあ。
2006年06月17日
●盛り沢山な一日
仕事のあとに、セミナーへ。
再来月に自分が担当ということで、どうしても自分があの場に立つことを想定しながら聞いてしまうので、発表の内容にイマイチ集中できず。
セミナーの後は前の職場で親しくしていただいた教授との会食。
いろいろな話を聞くことができ、充実した時間だった。
2006年06月16日
●中世城郭のPR
山中城跡を再整備 本年度中 三島市(静岡新聞)
三島市は15日、4月に日本百名城に選定された後北条氏の築城技術がよく分かり、戦国歴史の舞台になった同市山中新田にある山中城跡の再整備計画を策定する検討委員会を本年度中に発足させることを明らかにした。
この再整備計画の中に、来場者へのPRや資料展示施設の設置などが盛り込まれている。
いわゆる中世城郭は、どうしても城好きのためのものになってしまいがち。建物が残っているわけでもなければ、資料館があることのほうがまれ。そもそも自然地形を生かして築城された中世城郭に、資料館を設置する方が難しい。
先週のエントリで書いた小谷城のように、ふらっと行って、すぐに楽しめるというわけには行かない。事前に縄張り図とかを用意しないと、遺構をつかみとることは難しいので、今自分がどこにいるかすらわからなくなってしまう。そもそも、縄張り図があってもすっかり草木が生い茂って、迷ってしまうことがあるくらい。
そういったなかでは、山中城は比較的整備が行き届いていて、見て回りやすい方だが、それでもマニア向けなのは事実。あんまり整備されすぎて、せっかくの良さが失われてしまっては困るが、今の売店と駐車場あたりに簡単な資料館と資料の販売があってもいいとは思う。
なによりまず、バスの増便ですな。
2006年06月10日
●是非とも最良の決着を
高知城西側マンション予定地公有化を 城郭研究会(高知新聞)
貴重な歴史資料が見つかった高知城西側の旧国有地(高知市丸ノ内1丁目)でマンション建築が予定されていることに対し、全国的な民間研究団体「織豊(しょくほう)期城郭研究会」(中井均代表)が6日、県や高知市に予定地の公有地化などを求める要望書を提出した。
今のところ、10月に行く予定の高知城。
「桐紋棟飾瓦」が発掘されて、山内一豊以前の高知城の存在が明らかになったように、貴重な遺構である。何より、本丸御殿の残る貴重な高知城の周囲にみだりにマンションを建築するのはどうかと。
せっかく、「功名が辻」もやっていることだし、高知城を大切に扱って欲しいもの。県も協議を重ねているようなので、いい結果を期待したい。
2006年06月04日
●発見もさることながら英断に評価
築城時の土塁確認 松本城 (朝日新聞)松本城の総構えを考えるうえで、貴重な遺構の発見。土塁は高さ約3メートル、幅約16メートル、奥行き12メートルとうから、かなりの規模の土塁だということがわかる。しかも貴重な木杭も出てきている。
松本市大手2丁目の私有地に、松本城総堀の土塁の一部が築城時(1593~94)の状態のまま残っていることが文化庁と市教委の調査でわかり、国の史跡に指定される見通しとなった。土塁周辺からは、敵の侵入を防ぐための木杭(くい)や武家屋敷跡も発見された。
それにしても、市も土地を買い上げるなんて英断をよくぞ下したものだ。
ただ、前身の深志城とは関係ない様子。というか、築城当時とあると、深志城時代まで遡らないといけないような。地方版なんだし、そのあたりの注釈は必要な気がする。
2006年05月28日
●なかなかの新発見
館林城に『三重櫓』 “天守閣”あった 新たに発見、綱吉時代の絵図(東京新聞)結構大きなニュース。こういう絵図からの発見というのは、重要になってくる。今となっては、遺構もほとんどないので、どの程度の大きさだったかなどは、分からないかもしれないが、まだまだこういった新発見がああるというだけでも、楽しみが増える。館林城に限らず、城絵図はまだまだ日の目を見ていないものも結構あるはず、期待したいもの。
館林城の二重櫓(やぐら)の定説覆る-。江戸時代に七大名が城主を務めた館林城で、五代将軍徳川綱吉が城主だった時期に“天守閣”に相当する「三重櫓」が築かれていたことが、館林市市史編さんセンターの調査で分かった。これまで確認された資料では「二重櫓」が定説とされてきたが、国立国会図書館が所蔵する綱吉時代の絵図が三枚見つかり、うち二枚に三重櫓の絵、一枚に「三重御矢倉」の文字が記されていたため、その存在が裏付けられた。同センターは「館林城が格式高く、重要な城として位置付けられていたことが確認された」と話した。
それにしても、国会図書館所蔵の資料でまだまだ確認されてないものがあるんだねえ。
2006年05月25日
●結構期待の事業
小浜城を10年後復元(日刊県民福井)
2016年 琵琶湖若狭鉄道・世界遺産リスト搭載 3点セット
市長が構想 来年度に調査費
小浜市の村上利夫市長は二十四日の記者会見で、小浜城復元計画策定の調査費を来年度当初予算案に盛り込む方針を明らかにした。十年後の二〇一六年の完成を目指す。 (小畑一成)
またまた出てきた復元話。どうしても気になるのは、計画内容と資料。忠実な復元を期待したいわけで。検索したら、小浜市のホームページに、復元計画が載っていた。
どうやら、ある程度史料が残っているので、復元は期待できそうだ。
観覧料倍増に疑問の声 彦根城築城祭中 500円を1000円に滋賀県彦根市は、2007年の国宝・彦根城築城400年祭の開催中、彦根城の観覧料を現行の500円を1000円にする条例改正案を6月5日開会予定の定例市議会に提案する。獅山向洋市長は24日の定例会見で「天秤櫓(てんびんやぐら)内部などの特別公開や特別展など付加価値を高めるので、十分値打ちはある」と述べた。市議からは「400年祭に水をさしかねない」など疑問視する声が上がっている。
気になるイベント。天秤櫓の特別公開とか、見逃せないものもあるが、確かに1000円は高いか。まあ、よくある複数の資料館のセット料金と考えれば、妥当な価格とも言える。集客を当て込むライトなファンにとっては、料金がネックになるか。少なくとも、自分は天秤櫓などの特別公開に十分魅力的なので、1000円でも行くが。人が少ないほうがなお有り難いかも。
2006年05月24日
●保存の難しさ
三重県松阪市 重文の「御城番屋敷」老朽化 修理保存委を設置(読売新聞中部版)
松阪城下にあり、城詰めの紀州藩士の住まいだった「御城番屋敷」(重要文化財)の修復について検討する修理保存活用計画策定委員会の初会合が23日、松阪市役所で開かれた。現在、住宅や借家として管理されており、「調査、修復には屋敷の所有者や住人の理解が必要」などの意見が出された。
ばかげた復元に続いて、保存の難しさ。
日出城の鬼門櫓が崩壊寸前の危機に瀕しているが、これも個人所有のため。いくら貴重な文化遺産とはいえ、簡単に保存作業にかかれない。
城郭の保存はだいぶ進んでいるし、西尾城は別にして、最近は忠実な復元への努力が見られる傾向にある。その一方で、城下町、武家屋敷などになると、保存も復元もおざなりになりがちである。そういったなかで、貴重な文化財なので、ぜひとも保存のために最善を尽くして欲しい。
2006年05月23日
●時代錯誤も。。。
西尾城再建へ 友の会再発足 間主導で計画を策定(中日新聞)
休眠状態となっていた「西尾城再建友の会」が再発足し、22日に第1回の会議を西尾市役所で開いた。西尾城の天守再建を民間主導で進める母体となる。今後は、2カ月に一度会議を開き、市が取り壊す方針の錦城体育館(錦城町)の跡地に再建する具体的な計画を立てるなどしていく。 (桜井孝雄)
残念ながら、この再建は期待できそうにない。この時勢に再建というからには、しっかりとした資料があるのかと思えば、
>天守4階に朱塗りの高欄を設けるのか、設けないのか
なんて、検討課題が挙がるくらいだから、なんちゃって天守しか出来そうにない。しっかりした資料があるのであれば、高欄をつけるかどうかなんていう議論が出るはずがない。ただ、「城があった。天守が建っていた」というだけで、安易に再建されても意味がない。
客寄せとか、まちのランドマークとしての天守建設の時代は終わったのだが、時代錯誤もはなはだしい。まあ、民間主導で募金でまかなうというから、税金の無駄遣いにならないだけいいか。
2006年05月20日
●やっぱり遠いねえ。
築城400年記念シンポ 清正の土木事業考察(くまにちコム)
来年の熊本城築城四百年を記念したシンポジウム「加藤清正の築城と治水」が二十日から始まった。二十一日まで。初日は熊本市手取本町の市役所大ホールで研究発表があり、熊本城をはじめとする清正の土木事業について、技術の系譜や歴史など多角的な視点から考察が加えられた。
築城と治水は欠かせないものだけに、かなり興味深いシンポジウム。治水といえばの武田信玄との関係は、いかにもな感じもするが。
他にも慶長時代の絵図や国絵図に関する考察など、絵図研究でおもしろそうな発表があったようだ。
熊本は遠いなあ。まあ、復元事業がひと段落したとことで見に行こうかな。
2006年05月13日
●名前もいいけど
岩手公園の名称変更 開園100周年、観光PR城跡が公園になっていることは多い。「○○城址公園」とあればいいけど、盛岡城のように、岩手後援とあると、確かにわかりづらい。
盛岡市は中心部の国指定史跡「岩手公園」の名称を変更する方針を決めた。谷藤裕明市長が12日の定例会見で「盛岡をアピールできるような呼称に変更したい」と表明した。9月の開園100周年を機に、かつて盛岡城だった歴史性や所在地の盛岡を連想させる名称に変え、「観光PRに役立てる」としている。
ただ、名称変更もいいけど、他にやることも多い。前に行ったときは、石垣が崩落しかかっていた。上物つまり建物の復元しろとは言わないけど、城跡をしっかり整備することも必要でしょう。案内板の充実とか。資料館の併置とか。立派な石垣を持つ、いい城跡なだけにそっちのほうもしっかりして欲しい。
2006年05月10日
●気になるイベント
熊本城では、築城400年を来年に控えて、復元工事など多くの記念事業行われている。
その一環として行われるイベントに、どうやら10月に「国際お城会議」なるものがあるらしい。
なんとも気になるイベント。いってみたい気もするが、2008年春の本丸御殿完成時に行ったほうがいいだろうし、10月は四国の旅行会を申し込んでるからなあ。(ちょうど修学旅行期間)
2006年05月06日
●富山城
金沢城をあとにして、富山城へ向かう。
こちらは、郷土資料館ことなんちゃって天守のリニューアル工事終了して、昨年11月に一般公開が再開したばかり。郷土資料館では、これまた企画展「よみがえる富山城」が開催中。今回は、企画展に恵まれる。
ただ、せっかく「よみがえる富山城」展を開催中の割りには、堀と石垣の工事中で、城址公園自体はあまり楽しめず。企画展が終了してからはじめればいいものを。
郷土資料館の展示は、ふんだんにCGを導入するなど、金沢城以上に最新の技術を導入したものに。かなり気合が入っていた。
なんちゃって天守そのものは見所はないうえに、城址公園自体は工事中だから、企画展のために立ち寄ったようなものだった。まあ、福井→金沢ときて帰るには富山は通り道なわけだから、無駄足ではなかったが。
富山駅で、定番の「ますずし」を買う。売り切れていたが、小さめの長方形の箱に適度な大きさに切って入っている「ますずし弁当」なるものがあることを知る。定番の駅弁とはいえ、付属のプラスチックナイフで切って食べるとなると、電車内ではかなり面倒くさいだけに、売り切れていなければこっちのほうが食べやすくて便利。
●金沢城
ホテルをチェックアウトして金沢城へ行く。
実はこれが2回目だが、前回はまだ大学が城内にあって、石川門しか見られなかった頃。まあ、だまってうろついていても、学生かどうか分からなかっただろうけど。
大学が郊外へ移転して、復元事業が始まってからは初めてになる。
まず歴史資料館に立ち寄る。うまいこと企画展「加賀百万石への道」の最中。
兼六園へ。兼六園で昼飯を食べて、いざ金沢城へ。
復元された菱櫓・五十間長屋・橋詰門続櫓のなかに入る。基本的には木造復元だが、かなりバリアフリーな構造になっているうえに、液晶テレビで復元解説が流れていたりと、ずいぶんと最新の設備が導入されていた。個人的にはなんか違う・・・という感じ。
そのあと、切手門・三十間長屋なども見てまわる。結構観光客はいたのだが、切手門を見る人は皆無。
そういや、北陸新幹線開業に合わせて、更なる復元事業があるとかないとか。どうなんだろう?
2006年05月05日
●一乗谷
一乗谷へ行く。
越美線の本数が少ないうえに、バスも土日休日ダイヤで本数が少ない(観光地なんだから本来増やすべきな気もするが)ので、11時のバスにのることに。
まず、ホテルを出て福井県立歴史資料館の企画展「柴田勝家」を見る。
その後、バスで朝倉家資料館で下車し、見てまわってから、一乗谷へ向かうことにする。この選択が正解で、資料館が100円で貸し自転車のサービスをしていた。
見てまわると、よく復元したなあと。
なかなか見所満載だった。ただ、城下町研究はあまりしてこなかったので、もっと深い見方が出来たんだろうけど、惜しいことをした。まあ、川を挟んで居館と城下町が並行に並ぶというのは、中世城下町には見られない形態のように感じた。
ただ、残念だったのが、一乗谷城(朝倉館ではない)にいけなかったこと。マップに乗っている道が河川工事か何かの関係で封鎖されていて、ようやく見つけた道から行くには時間的にもうすっかり遅くなっていたので、断念することに。
結果として、本数の少ない帰りのバスの17時よりも早く見てまわってしまったので、一乗谷駅へ行って時刻表を見ると、うまいこと福井駅行きの電車の時間に間に合ったので、予定より早めに。
夕飯はホテルのグルメマップにあった近くのお好み焼き屋に行ったが、イマイチ。味も量も物足りなかった。もう少し食べようかと、散策していたら、縁日を発見。たこ焼きを食べる。こちらは、熱くてなかなか美味だった。
2006年05月04日
●北庄城&福井城
福井駅に着いてから、北庄城跡こと柴田神社へ向かう。
バリアフリーな城跡ということだが、なるほどそういうことかという感じ。遺構の上に通路を走らせるという手法をとっていた。しかも、福井城の遺構と北庄城の遺構が混在している珍しい形態。
一度ホテルにチェックインしてから、夕食がてら福井城へ向かう。
城跡には県庁が占拠しているが、福井大地震で崩れた天守台など石垣は残っており、なかなかの規模を誇っている。家康設計の伝承が残るだけの事はある。
県立資料館は明日に回して、ヨーロッパ軒でこれまた福井名物というソースカツどんを食べる。お味はまあまあというところ。肉が薄いのとちょっと固かったのが残念。
●丸岡城
北陸城めぐりは、まず丸岡城へ行く。
丸岡駅でタクシーを捕まえると、運転手の機転で同じ丸岡城目的の中年夫婦をピックアップして、割り勘になった。
まず一筆啓上茶屋で福井名産のおろしそばを食べて、資料館そして天守へ向かう。
現存最古とされている天守は、いままでで最も階段が急勾配。上り下りに一苦労。城跡としては、天守のみで、資料館の展示も貧弱。遺構もほとんどないため、ちょっと物足りない。
現存最古でありながら、重要文化財どまりなのはそのためか。
帰りはうまいこと、福井駅行きのバスを捕まえられた。
乗り物運はいいかも。
2006年05月02日
●対策を立てるのは良いこと。
まあ、姫路といえば、どうしてもお城になってしまう。城好きだと、1日かけてじっくり見てまわろうと、姫路宿泊もありだけど、普通の観光客は、さっと見てまわるから、姫路宿泊よりも神戸・大阪に宿泊なんだろう。
そういう点では、姫路城以外の観光スポットを増やして滞在客の獲得を目指すのはいいだろう。
しかも平成大修理になれば、一般観光客にとって目当ての天守が見られないとなれば、姫路城自体に訪れなくなってしまうのは大いによそできる。その対策の
>足場にエレベーターを取り付け、普段は大天守に登れない車いすの障害者らに、
>修理の様子を見学してもらう案
これは気になる。他の観光客にも見せて欲しい。
2006年04月30日
●余計な赤入れ?
松本城の城下絵図が見つかった。今回大きいのはこれまでの水野氏時代の城下絵図3枚と異なり、作成年代が明確で、町人名記載があること。これは非常に貴重。
何はともああれ、記事のタイトルが大きく間違っている。
松本城の下絵図ではなく、城下絵図。
きっと、「松本城下絵図見つかる」とあったタイトルを校正担当が、いらぬ気を利かせて、直したんだろうな。正直、下絵図ってあるから、設計段階の絵図か何かかと思った。もちろん城下絵図でも貴重なのだが、なまじ下絵図だと思ったせいで、興味も半減。
昔、落語の「粗忽の使者」になぞって、「粗忽の記者」というタイトルで記者の失敗談を書いたら、ご丁寧に「粗忽な記者」に直されてたなんて話もあった。
2006年04月29日
●ライフワークの方も。
今日は、総会&大会。
白峰さんの発表は勉強になる。
今年はセミナー講師(実際には発表)もあることだし、大いに参考にしたい。そろそろ準備に取り掛からねば。
というか、急に生活が変わって、論文が書けてない。。。
別に、こっちは課されているわけではないけど、卒論を2分割して書き上げるつもりだったんだけど。
帰りに、
を購入。読む暇(というか余裕)あるのか
2006年04月27日
●これが言いたかっただけ?
和歌山城の廊下橋の復元が完了して、一般公開が始まった。前に和歌山城へ行ったときは、復元に伴う調査を行っていた。
また改めて行くことにしよう。
にしても、この記事は、
>8代将軍徳川吉宗の城だが、「暴れん坊はお断りです」と市の担当者。
これを市の担当者と記者は、言いたかっただけかと思ってしまう。
2006年04月25日
●さて、今年の予定は。
今年のGWの予定をまだ決めていなかった。
福井に行くかな。丸岡城行ったことないし。
最近、なんだか行く先が思いつかない。
問題は宿がとれるか。
2006年04月23日
●痛み分けねえ。。。
刑務所敷地内から発掘された伊達政宗の晩年の居城は、砂をかぶせて遺構を保護した後に工事に入る「痛み分け」で決着した。
破壊されなくて済んだとはいえ、埋め戻されるとはねえ。
法務省の言う「受刑者を監視する管理棟は刑務所の中枢機能」はよく分かるが、計画を変更することはできなかったのだろうか。
「砂がクッションになって遺構が破壊されることはない」というのを信じるしかない。
2006年04月21日
●破城が必要なのか。
岐阜県の中津川での殺人事件の現場は、一部で有名なあやしい城だった。
もう3年前の時点で、「元パチンコ店」という話だったから、長いこと放置されていたようだ。廃墟のうえに、目を引く建物だから、たまり場になっていたのだろう。
2006年04月19日
●不届き者めが
なんというか。なんでこう、文化財を大切にしないのかな。犯人を見つけ出して厳罰に処して欲しいところだが、なかなか難しいだろう。再発防止のためにも巡回を増やして、もし見つけた場合には、しっかり処分して欲しい。修復に関わる費用は、しっかり弁償してもらう。
そういえば国宝を破損させて、こっそり修復した文化庁職員もいたな。まあ、最初の破損悪意は無かったのだけど。
2006年04月17日
●のろし研究の第一歩
古代の烽火について調べた身としては、古代の城と烽火の関係は気になるところ。なにか烽火に関わるような遺構が出てこないかと期待してしまう。烽火は軍防令で規定されながら、実際の使用は不明な部分が多い。遺構の発見は、解明の第一歩になる。
しかも、朝鮮式山城と烽火の関係が明らかになれば、古代の烽火ルートの解明にも非常に大きい。
写真で見る限り、なかなか面白そうな城だ。
2006年04月16日
●天守建築にもつながるか。
天守建築にもつながる木造高層建築の耐震構造研究。天守よりも長く、自身にも持ちこたえている五重塔の構造の解明は非常に気になる。
心柱の有無が影響しないというのは驚き。確かに、天守でも心柱のないものもあるが、心柱がある以上、耐震構造に重要化と思いきや、違うそうだ。
2006年03月30日
●岸和田城リベンジ
大坂城を後にして、昨日があまりに悔しかったので、岸和田城へ再び行く。
大坂城の天守を出ると暴風雨だったときは、
「そこまで岸和田城は拒むのか」
と思ったが、資料館を出るとすっかり雨がやんで、晴れ渡っていたので、再訪城。
昨日外から撮影したし、東京へ戻るので、そうそうに本丸へ入る。まず資料館へ入るが、あんまり展示品は無い。拍子抜け。天守では岸和田出身の陶芸家の作品展が開催中。これが原因で、昨日は臨時休館だったようだ。
ここまで苦労して訪れながら、お世辞にもいい城とはいいがたかった。
●乾櫓、焔硝蔵
大坂城へ行く。
ただいま特別公開中の乾櫓と焔硝蔵を見るため。今回の旅の最大の目的。
緑化フェアの一環での特別公開ということで、去年の名古屋城博といい、イベントごとにはなにか惹きのあるコンテンツが必要と言うこと。
乾櫓は、構造そのものは、1層と2層が同じ大きさという以外は、他にある現存櫓と大きく変わることは無い。ただ、床板のカンナのかけ方は、なかを武士が走り回ることを考慮して滑りにくくなるよう工夫が凝らしてある。
焔硝蔵は、意外なまでにあっさりとしたもの。2つの石垣の上に屋根を載せたような構造。
天守から出てくると、暴風雨。
最上階の展望台にいたときは降ってていなかったので、そこから降りている10分もしない間に振り出したことになる。とことん、天気にたたられる。(楽天か!)
大坂城の絶好のビューポイントだった資料館のビルからの眺めは、映り込みが激しく、窓に水滴が付いたり曇ったりしているのもあって、撮影に耐えられなかった。なんで、2年前はあんなに映り込み無しできれいに撮れたんだろう。
2006年03月29日
●岸和田城・・・
池田城から大阪府を縦断する形で、一昨年の夏に断念した岸和田城へ行く。
駅を降りて岸和田城へ向かう途中は曇り空だったのが、急に風雨に見舞われる。
しかも岸和田城のそばに来ると、空は晴れ渡っているのに、雨風が激しいという撮影には一番始末に悪い状況。なんとか雨がやむのを待って外から撮影し、いざ本丸へ向かうと、
「臨時休館」
の文字。。。28日29日は臨時休館とのこと。
岸和田城はまだ受け入れてくれないようだ。
●池田城
池田城へ行く。
中世の城をイメージした復元がされているが、発掘調査結果とはずいぶんと違う復元がなされているように見られた。
城址公園入り口にある展示室のビデオ「よみがえる池田城」は、往時の様子をCGで復元するわけではなく半分以上が池田市の紹介。。。
せっかくの城を生かしていない。そう感じた。
しかも、池田城から資料館へ向かう途中に吹雪に遭う。
なんとも消化不良。
2006年03月28日
●明石城
明石城へ行く。
駅に着くと、すでに雨。
ちょうど昼飯時だったので、駅前のお好み焼き道場で明石焼(+スジ焼)を食べる。
食べてる間から、本降りになったうえに、雷までも。しかも、風まで吹き始めてきたので、写真もゆっくり取れないので、一通り見てまわって、私立博物館へ。もともと2つある現存櫓にも入れず、外から眺めるだけだったのだg、やはり消化不良。
本当は、ホテルへ行く途中で、尼崎城へも寄る予定だったが、雨風で気力も失せて、そのままホテルへ。
夜は、お好み焼きを食べる。
お好み焼きを食べた後、道頓堀のあたりを散策。軽く迷子になる。
●まあ、卒業旅行になるのかな。
明けて今日から、大坂へ。
大坂城で乾櫓と焔硝蔵の内部が特別公開中なので、見に行くのが最大の目的。
とりあえず、一区切りということで、気分転換&有休消化ということで。(消化し切らないけど)そういや、「辞める人が有休使うなんて普通の会社ではない」などという妄言をほざいた派遣元の社員には驚いた。別に完全消化する気はハナから無いけど、あの言い草にはねえ。
2006年03月21日
●これは見逃せない。
大坂城で乾櫓と焔硝蔵の内部を特別公開するそうだ。大坂城天守閣
期間は3月25日から4月2日までの9日間。こんな貴重な機会はないから行こうかな。
どうせ、6月以降は有休を使えそうもないから、今のうちある程度使っておかないと。
2006年03月19日
●武田系城郭?
武田氏館跡に「三日月堀」 勘助伝授の築城術のルーツか
甲府市教委が確認 全長約25メートル、敵侵入拒む狙い
三日月堀といえば、武田系城郭の特徴とされてきた時期もあった。最近では、この図式も下火になってきた。というか、武田系城郭なんてものは存在しないのではないかという見解が出てきていたが、武田系城郭論が再燃するのか。
ただ、この記事だと山本勘助自体の位置づけという大きな問題がある。
現地説明会やらないのかな。
2006年03月16日
●発表終わる。
卒論発表大会へ出た。
15分の発表だから、いい足りない部分ばかり。特に前の発表者がいろいろ盛り込んであわただしかったので、ゆっくりきいてもらおうとか、ちょっと膨らまそうなどと、余計なことを考えるからなおさら。凡例入れ忘れるし。
ただ、「面白い研究だね。ぜひまとめて発表してください」と声をかけてくれた先生もいらしたので良かった。
でもね。
あたしゃ、ちりじゃないのよ。
2006年03月15日
●予行演習になるか?
明日は卒論発表大会。
会場の某大へいくのは、13年ぶりかあ。
まあ、15分程度の簡単な発表というか報告だけど。学会にあわせてのものなので、研究で意図したものと若干のずれもあったりする。
まあ、8月のセミナー講師のいい予行演習になるか。レーザーポインタまで買っちゃったし。
学会からいって、教育実習でお世話になった先生が来るような気も。
2006年03月12日
●箕輪城現地説明会
箕輪城の現地説明会に行った。
なかなか面白い発掘結果が出てきている。
排水溝まで出てきているとは。御前郭から出てきた四脚門遺構では、石塔が156個見事に敷き詰められおり、説明のとおり、適当な石材であったようだ。
初めての現地説明会はなかなか面白かった。
続いて行われた齋藤慎一氏の講演会もなかなか面白かった。タイトルが「徳川家康と箕輪城」とあり、なぜこのテーマなのかと不思議に思っていたが、冒頭の説明で納得。豊臣大名としての徳川家康の築城を考えるうえで、箕輪城は貴重ないこうであるとのことで。豊臣大名としての徳川家康というのは新鮮な視点だった。
帰りのバスがなく30分以上バスを待つ羽目になったのご愛嬌。
2006年03月11日
●問題は発掘後。
改めて、城郭関連ニュースをチェックしていると、頻繁に遺構は発見されている。ただ、今回の調査が積極的な発掘調査ではない。そこが重要。宅地開発に伴う調査と言うことで、発掘された遺構が果たしてどうなるのか。これが気になるとこところ。遺構を保存して欲しいと思うだが、どうなるのか。何がしかの保存処理は施して、埋め戻して宅地化といったところだろうが、そうすると、日の目を見ることはなくなってしまう。残念な限り。
さて明日は、箕輪城の説明会。こちらは、積極的な発掘調査継続中。箕郷町が高崎市に吸収合併されても、切り捨てられなかったのは非常にありがたい。
2006年03月05日
●絵図研究かあ。
絵図とあるだけなので、正保城絵図なのか、また違う絵図なのかはよく分からない。こういう調査には絵図の存在は非常に大きい。絵図研究というのもなかなか面白い。ただ現物に当たるとなるとかなり大変。
見出しには出ていないけど、写真で紹介してあるようにあれだけいい状態で軒丸瓦が出土したと言うのも結構貴重。
ところで、ビルの立替に伴う調査のようだが、これだけの遺構が出たけれども、埋め戻して上に建てるのだろうか。
2006年03月04日
●驚きの発見。
何が驚いたって、発見した高知女子大の大学院生が62歳の男性だったこと。しかも、県立大学。
頂上が削平された山があると、城郭研究者はまず「城があったんじゃないか」と考えるんだけど、なんで今まで誰も調べなかったんだろう。しかも、あっさり竪堀と堀切も発見されてるし。ついでに記事を見れば、城があったていう言い伝え(伝承というほどでもないかな)もあったみたいだし。
こうやってみると、まだまだ城は見つかるのかもしれない。
2006年03月03日
●今年は説明会優先。
なんだかんだで、一番いったことのある城の1つの箕輪城。そういえば、小和田哲男さんの石塔の転用の論文があったな。読み返してみよう。石塔の転用を思想的なところと絡めるのは、たぶんに憶測が含まれてしまいがちだけど、「御前曲輪の門跡直下の堀からは、橋脚の基礎となる石垣が発掘され」たというのは、縄張が大きく変わるかもしれないので、見逃せない。
そっか、とうとう高崎市に合併されたんだねえ。箕輪城の結構よくできた紹介ページもなくなっちゃったみだいだし。
12日に説明会と言うことで、スポニチ大会決勝の日。去年は「負けたら群馬」で吹雪の中、決勝を観戦したけど、今年は「負けたら群馬」はやめて素直に説明会へ行こう。
2006年03月02日
●天守再建ブーム?
なんだか、急に天守再建話がいろいろ出てきたなあ。西尾城資料館に天守の復元模型があるらしいから、ある程度資料は残っているのだろう。別に、法令上は国指定史跡でなければ、史実に忠実とか縛りはないんだけど、トンデモ天守だけは勘弁して欲しい。
この記事でまず興味深いのは、天守の再建にかかる費用。木造なら13億、コンクリなら11億とのこと。理想は木造だけど、2億の違いは大きい。
それと、天守は二之丸にあったというのを初めて知った。というか、西尾城自体、実は初めて目にしたのだけど。
2006年02月28日
●まだまだチェック。
「よみがえる日本の城 28―城の魅力がもっと見えてくる (28)」
を買った。
今号は城の歴史がテーマ。で、甲斐の狼煙網が出ていた。たぶん八巻案がベースと思われる。おおざっぱなので、分からない部分も多いので、今度じっくりどの城を狼煙台としているのかチェックしてみよう。提出したとはいえ、8月にはセミナーも担当するし、ライフワークとしてこれはチェックしていかないと。それにしても、高田徹氏が書いているところに、なかなか興味深いものがある。まあ、頼まれたから書いただけかもしれないが。
「よみがえる日本の城」シリーズもあと2巻か。いよいよ完結。これで、とりあえずは城関連の雑誌・ムックの定期刊行はすべて終わることに。なかなかの出費だった。
2006年02月26日
●天守だけでは。
こういう計画はありがたいけど、問題はどうやって復元するのか。しっかりした図面などの資料があるのか。適当に、コンクリの模擬天守を建設するなら、なんの効果もないだろう。なにより、ある程度遺構が残ったうえでこその天守だと思う。天守だけ建ててもねえ。
なにより、観光客誘致のためだけでなく、地元の歴史を見直すという意識がないと、こういう計画は成功しない。
同じ栃木県の宇都宮城コンクリ塁のような暴挙だけはしないで欲しい。
2006年02月25日
●仕事算のようにはいかない
そっか、石垣の修復と発掘調査をしていたのか。知らなかった。1975年から続いていると言うことは、今まで行った3回のときにもやっていたことになる。まあ、最初は小学2年生のときだから覚えていないだろうし、去年は名古屋城博で作業どころじゃなかっただろう。でも、11年前(うわっ、そんな昔か。年取ったな)に行ったときは、気付かなかったな。
確かに、修復作業と調査を並行して行うというのは効率的である。でも、時間もかかりそう。東海大地震に備えてきっちり積みなおすとなれば。延べ20万人を動員して半年で仕上げたというのはすごい。権力構造というのが垣間見える。まあ、仕事算でいけば、1年200日労働時間は当時の半分の作業として、50人のチームだとすれば、20年程度で工事は終わるけど、そうは簡単にはいかない。にしても、かかりすぎ。このままじゃ、修復が完了する前に東海地震が起きかねない。
そういや、江戸城の石垣の刻印を調べるなんて話があったような。
2006年02月23日
●リライト?口述筆記?
35行の規定のところを47行になって戻ってきた要旨を35行に収める。
一応、修正の意図は反映しながら、12行をスリム化。我ながら驚きの編集術。もはや、リライトにちかい。いや、口述筆記かな。以前、MVNOについて話を聞きにいって、その人の署名記事で文章化したいわゆる口述筆記をしたことがあったが、それに近いかも。
何をどう直したのか、思い出すのも難しいくらい。
2006年02月20日
●昔取った篠塚?
発表要旨を指導教授にチェックしてもらったところ、添削されて返ってきた。
空白部分に内容を補充して提出するようにとのこと。
でファイルを開くとページ設定が変わっている。
指定された体裁に書式に直すと12行オーバー。。。
メールの本文を見た瞬間に嫌な予感はした。デスクや副編と違って、文字数を計算して赤入れをしてくるとは到底考えれないので、オーバーしている予感はした。まさか、3分の1もオーバーしているとは。
まあ、用紙作成要領には、「本文掲載時、○字×△行」とあるので、申し込みの際の発表要旨は必ずしも行数は問わないのかもしれないが、本文掲載時に備えておかないといけない。
ということで、修正を生かしながら大幅なスリム化をはからねばならない。まさか、こんなところで編集者にもどるとになるとは。昔取った篠塚の流し打ちといくのか。。。
2006年02月17日
●削るしかないんだろうけど。
うーん。
レジュメがまとまらない。
最終構成をもとにレジュメを作っているが、15分程度の発表のレジュメだと、ごっそり削らないといけないからこれが難しい。手っ取り早く削れる章はある。ただその章もあっての研究だから、本当は入れたいところだけど、発表する学会の性格を考えると、削るしかないのか。
2006年02月16日
●なぜこの2城なのか。
「梵字(ぼんじ)」が表面に墨書された石が出土したというだけでは、寺院があったというのはどうかと思ったが、軒平瓦も出土しているからの推測だろう。
もし本丸に寺院があったとなると、安土城以外では初めての例となるそうだ。だとすれば、安土城との関係が注目される。他の縄張プランなどでも、安土城と関連性があるのか。そもそも、織豊系城郭の中で安土城と中津城の2例しかないのはなぜか。と、興味が尽きない。
2006年02月14日
●無難と言えば無難。
日本城郭協会が日本の名城100選を発表した。コチラ(PDF)
まあ、無難と言えば無難。でも、なんだか微妙。なんと言うか、基準がすごくあいまい。各都道府県1以上5以下にして、満遍なく選ぶというのはいいけど、そこから先の基準が良く分からない。
①優れた文化財・史跡
②著名な歴史の舞台
③時代・地域の代表
とあるけど、選考結果を見る限り、何か腑に落ちない。確かに、高地性集落の吉野ケ里遺跡や朝鮮式山城が選ばれているのは評価できる。その一方で、清洲城や浜松城はなぜ漏れたのか。伏見城や山科本願寺だって、入っても不思議ではない。近代要塞は?陣屋は?と疑問は尽きない。選考委員は、それなりの人たちで構成されているのだけど。
まあ、ナントカ100選なんて、えてして微妙な結果になるもの。
2006年02月13日
●まだまだ知らない用語が。
石積みの排水施設が「会所」と呼ばれていたことを初めて知った。日本史用語では、別の意味で使われているので、どうしてもその印象があって、取引所とかを思い浮かべてしまう。まだまだ、勉強が足りないな。
それにしても、説明会を15日なんて平日じゃなくて、土日に開催すればいいのにね。
2006年02月12日
●地味ですがぜひ。
現在進行中の熊本城といい、名古屋城の復元計画といい、最近は本格的な復元事業が行われる。城郭ファンとしてはうれしい限り。51億2000万円でできるというのは、安いのか高いのか。
鳥取城の本格復元もいいけど、記事には見逃せない一文が。
>計画では、基本方針に近世の鳥取城だけでなく、中世の城郭跡の保存整備を目指すことなどを挙げた。
これはなかなかいいこと。「なにもない」と言われがちの中世城郭に目を向けて保存整備をしてくれるのはありがたい。
2006年02月11日
●兵器オタクへの道?
近代要塞についてのセミナーを聞く。
導入の話であったように、中世城郭や近世城郭と違って、要塞にはとんとなじみがない。そういう点では、入門としてなかなか興味深い内容だった。
ただ実感したのは、兵器の知識がないと、よく理解できないということ。中世城郭や近世城郭なら、出てくる兵器も弓矢、礫、鉄炮そして近世になると大砲程度なので、種類もタカが知れていて、縄張りと兵器の関係もイメージしやすい。そこへいくと近代の要塞は、カノン砲をはじめたくさんの種類の大砲があるため、砲座と大砲の種類の関係を理解するだけでも、なかなか大変。
要塞を理解するには、まず兵器を熟知しなければ駄目なようだ。
2006年02月09日
●バーゲンだよ~by牧伸二
近くのブックオフで『日本城郭大系』全巻を購入。
購入価格が特筆もの。
なんと、
25,000円
「日本の古本屋」でも、一番安くて85,000円。1冊にしても別巻1が2,000円だから、「今ここで買わずにどうする」と言われてるようなもの。しかも、無料で明日の夕方に家まで配送してくれるし。どうやって持って帰るかが、難題だった。
知り合いから、先週土曜にこの情報を貰って以来、売れないことを祈りながら、晴れて今日購入するはこびに。
でも、置き場所が。。。
2006年02月08日
●証人喚問・・・
じゃなくて、口頭試問。
まあ、無難に終わる。
やり取りの大半が、「どうやって内容を膨らますか」だった。膨らませて、発表、投稿へと。とりあえず、3月にどこかで発表することに。候補は2つで、どちらになるかは未定。
ただ、発表すると言うことは、膨らませる同時に、レジュメを作らなければいけないわけで。また一仕事。。。
ちょっと、膨らます方向性が腑に落ちなかったりするんだけど。
2006年02月03日
●お粗末な破城
見事なまでにぶっ壊してくれました。きちんと指示を出さなかった北有馬町もさることながら、国指定史跡にいきなり道路を造るって、作業した業者はどういう思考回路をしているんだろう。
30か所28パーセントを破壊というで、管理用道路が突っ切って、帯曲輪がすっかり消滅。
こんな記事が出た頃には、すでに破壊されたということになる。
いくらセミナリヨの歴史を見直すといっても、大きなかかわりを持っていたはずの城がこの有様じゃあねえ。
2006年01月28日
●杉山城
杉山城へ行く。
つい最近まで後北条の縄張りの典型といわれていたのが、発掘調査でみごとに約50年も時代がさかのぼってしまい、いろいろ物議をかもし出している。
前回行ったのが昨年の3月で、大雪のまさに直後で、遺構も何も分かったもんじゃなく、危うく遭難しかけた。今日も街中を見る限り、先週の雪がだいぶ残っているかと思いきや、武蔵蘭山駅を降りると、消え残りの雪がまったくない。でもって、杉山城へ着いても、消え残った雪は一切なし。むしろ、この1週間の好転で、すっかり地面は乾ききっていた。
肝心の城はと言うと、本当に見事な縄張り。遺構の状態も良好で、堀や土塁、虎口など中世山城のパーツが良く分かる。中世山城の教科書のような城。たしかに、資料的裏づけが一切ないのに、これまで後北条の城とされてきただけのことはある。
この件について言えば、現在の発掘結果(15世紀末の築城)を縄張り研究はいかに取り込むかが問われているのだろう。個人的には築城練習を推してみたり。結構マジメかも。
杉山城を後にして、菅谷館を少し見る。こちらは、最近後北条の城とされた。
2006年01月27日
●研究者向けのものではないのかな
昨日から3日間、仙台で「全国城跡等石垣整備調査研究会」が開催中。
テーマが、「石垣遺構の記録化と整備」ということで、基調報告の仙台市の教育委員会が行っているという、石垣遺構の配列や修復個所、絵図などの史料をすべてデータベース化がすごく気になる。
今年で3回目と言うことで、そのうち行ってみたい気もするけど、名称や参加者を見る限り、研究者向けのものとは違うのかな。
2006年01月26日
●ナイスキャラ
ナイトスクープの「ノロシを上げたい!!」をみた。
確かに微妙な内容。「狼の糞で煙を上げること」が依頼だから、仕方ないんだけど。
この依頼で、なんで千田さんのところに話がいったのかは良く分からない。『烽の道』の佐原真さんの原稿に紹介されている上げ方を図解して糞集めしただけだから、なんとももったいない。もっと、戦国の城とのろし台の関係を聞きたかった。そもそも狼の糞を使ったこと自体、どうも話が先行して、実効性も疑問だし。まだまだ検討の余地がある。千田さんも「正しいです」といったあとに、「そういわれています」と続けてる。VTRのあとに、ちゃんとしたフォローもなかったから、本当に時期を見て再挑戦するのかな。
とはいえ、千田さんは糞集めではいい味出してた。頭をぶつけるなんて、軽く天然発揮してくれたし。というか、ご尊顔を拝したのが初めて。ヒゲがちょっとインチキ臭さをかもし出して。。。すいません。
2006年01月22日
●気付くかどうか。これが問題。
源平合戦の城ではなく、古代朝鮮式山城。この屋島城には、おそらく古代の烽火があったと思っている。石積みの解体復元と公開もいいけど、詳しい調査もぜひとも行って欲しい。まあ、烽火がどうやって上げられていたかが判明していない以上、どんあ遺構かもわからない。ということで、遺構であることが判別できるのかという問題もあるのだが。
2006年01月21日
●いいね。こういう大規模調査は。
城主とか具体的な役割など不明な部分も多くて、城自体にはいまのところ興味関心はさほど高くはない。ただ、こういった大規模な調査が行われているというのが、興味をひく。
たしか、高知県の埋蔵文化財センターはサイトでの調査報告が充実していたはずだから、今度じっくり見よう。
2006年01月19日
●大手の全貌はいつ分かる?
信長は見栄っ張り? 安土城 虎口を増築、石垣も豪華に
安土城、天皇招く出入り口いかめしく改造 諸大名圧倒狙う
相変わらず、安土城はいろいろと発見がある。しかも大手だけで、これだけ次々と出てくるのだから、全貌が分かるのはいったいいつのことか。というか、全貌は分かるのか??そもそも、大手自体がいつになったら調査を終えられるのか。
今回の発掘結果に対する見解の微妙な違いが面白い。
県教育委員会は、
「華麗な城郭と厳重な出入り口を見せ、天皇に同行する諸大名を圧倒しようとしたのだろう。信長らしい発想だ」
安土城郭調査研究所は
「信長が初めから計画していたという見方もあるが、計画が固まった時点で、見栄えを気にした奇抜な演出をしたと見た方がよい」
教育委員会のほうが、小説的というか空想の色合いが強い。正直、「信長らしい発想」というのが、公式見解としてふさわしいのかどうか。
2006年01月18日
●なんですと!?
どうやら、先週の「探偵!ナイトスクープ」で、「ノロシをあげたい!! 」という依頼があったようだ。しかも、千田嘉博さんが登場したらしい。
これは気になる。
依頼としては、中途半端なオチだったらしい。もちろん、依頼としてのネタの成立も大事けど、今回ばかりはどうでもいい。
「千田さんに何を聞いて、何を話したのか」
自分の研究テーマとかかわるところなだけに、これだけが気になってしょうがない。
とりあえず、来週木曜にtvkで放送予定なので、忘れずにチェックしなければ。
2006年01月17日
●時代劇さながら
「最古の熊本城絵図 熊大の北野教授らが発見 慶長17年に作成」(熊本日日新聞:会員向け)
最古の熊本城絵図ということも貴重だけど、毛利藩の内偵者によるものというのが面白い。内定者が城下で城の様子を探るなんて、時代劇さながら。
きになる略図と現在の異なる部分については、内偵者の誤りなのか、このあとに大幅な改編があったのか、まだまだ検討の余地がありそう。
>肥後領では熊本城のほか八代城や宇土城など十の城について触れている。
とあるから、宇土城と宇土櫓の関係なども分かるのかも。
2006年01月15日
●大人買い
安売りの店に行くと、山積の食玩があった。そのなかに、
カバヤの「日本の城下町」
があった。
湯屋や魚河岸、橋など城下町の町並みの食玩が10種類入っている。それだけなら、別に興味はないんだけど、一緒に城のパーツが入っていて、全部集めると大坂城の天守が出来上がるというおまけのおまけつき。1個100円だから、コンプリートしても1000円ということで、ワゴンの中から全10種類全部探し出して購入。
あとで調べたら、希望小売価格が480円らしいから、かなりお得な買い物。かなり前に売られていたらしいけど、食玩に興味がなかったから気が付かなかった。
天守と城下町の大きさのバランスがめちゃくちゃというのが難点ではある。
2006年01月09日
●踏ん切り
これ以上、こねくり回してもしょうがないので、そろそろ完成とすることに。
見直すたびに、直したいところが出てきて、すでにエンドレス状態になりつつある。
編集部時代に、原稿や校正刷りとにらめっこしているときに、副編から言われた言葉。
「直しだせばきりがないから、どっかで踏ん切りをつけないと」
DTPなもんだから、いろいろ直せる分、なかなか完成とすることが出来ない。最終的に副編の直しを反映させて、編集長のチェックを入れて終わるんだから、粘るのもいいけど、早めに出してチェックを貰うのも大事だった。
論文と雑誌記事との違いはあるけど、たしかにその通り。パソコンは自由に編集できるが、いじっていると、思わぬミスを併発しかねない。「~はの」というように、消し忘れた助詞が連続するなんて、パソコンならではのミスが出る。下手すると、切り貼りしすぎて、文章が成立しなくなったり。
なんだかんだで、直すたびにプリントアウトするから、裏紙を再利用しても、膨大な紙を消費する。
てなわけで、最終的な誤字チェックだけをして、明日には提出することに。
といいつつ、誤字チェックついでにいじりたくなりそう。
2006年01月08日
●もっといろいろな城で出てこないかな。
18世紀前半の「修補願絵図」 金沢城の「空白」埋める 防御施設記載で最古
「城郭修補願絵図」は、たしか3年前に白峰旬さんのセミナーを聞いて初めて知り、興味を持った。幕府提出の絵図の写しとなれば、正確さ信用度も高いもので、金沢城の今後の更なる整備にとって、大きな発見と言える。
滋賀県立安土城考古博物館所蔵の「金沢城内絵図」も調査の結果、最古の絵図と判明したというから、絵図によって金沢城の全貌がどんどん明らかになりそうなので期待。
他の城でもこうやって絵図が見つかって、いろいろ分かるといいのだけど。
また、金沢城へ行くのを先延ばしにしようか、どしよう。。。
2006年01月05日
●話はそれから?
タイトルだけ見て、耐震強度偽装がよぎったけど、そういうわけではないのね。先日出た御殿復元などの名古屋城の整備計画の一環とのこと。まあ、築46年だし、診断の結果だと「現行の耐震基準を満たさない」というから、当然のことでしょう。本当は補強よりも建て替えのほうがいいんだけど、本丸御殿復元で予算が目いっぱいなんでしょう。
まあ、とにかく外付けエレベーターを取り外せ!!
2006年01月03日
●そつろん
まあ、目処は立った。
結論まで一通り書き上げて、規定枚数は余裕で超した。これから、赤入れと、注の整理をすれば、まあ体裁は付く。
そして「作業」が残るばかり。資料作成ってやつ。これが、難敵。カシミール3Dとにらめっこで疲れ気味。
肝心の結論はと言うと、指導教授からは、最終報告の時点で“とりあえず”OKを貰っている。なぜ、“とりあえず”かと言うと、
「卒論としては十分やけど、せっかくやから、もっと突き抜けた結論だせんか?」(確かこんな感じの関西弁)
と指導教授に言われたから。
多少は発展させたけど、「突き抜けた」結論になったかどうかは不明。
そもそも、最終的には、この研究を2分割して再度提出しなけりゃならない情勢だから、ややこしい。本当は8月のセミナーだけのつもりだったのに。。。
2005年12月29日
●思いのほか、本格的。
今年、名古屋城博を開催してしゃちほこを下ろしたのもこのため。本丸御殿復元だけかと思ったら、櫓郡も復元も計画したりと、かなり本格的な様子。それにしても、本丸御殿が150億円で、全体ではいくらかかるんだろう。やっぱり、熊本城の本格的な復元整備計画に対抗したいのかな。
いっそのこと、コンクリ天守ぶっこわして、木造再建したほうが。
2005年12月26日
●超格安物件!!なのか??
お城が売りに出されてる!!
http://www.rakuten.co.jp/yoroi/142709/146602/
なんと、なんと、送料が1113円!!なんて、お得なんだろう。
なにはともあれ、
●商品破損などの場合 ●不良品
●配送中の破損 ●発送商品のまちがい
なら返品がきくそうだし。良心的。
アフィリエイト登録して、リンク張りなおそう。楽天ポイントつくし。
2005年12月23日
●発掘物は難しい
なかなか大きい堀が発見された。堀の発見もさることながら、物議をかもし出しそうなのが、堀底から出たという13世紀後半のものと思われる土師器。地元の古文書による築城年代から大きくさかのぼることになるのかどうか。杉山城では縄張りによる年代特定との違いだから、縄張りによる編年の見直しも求められるが文字で残る資料と相違が得た場合は難しい。古文書が誤りor創作なのか。古文書の記述を修築を築城としたと解釈しなおすのか。それとも、土師器自体が築城後に何らかの形で埋められたものなのか。いろいろ検討が必要。
明治21年の絵図どおりの発見ということで、その頃まではしっかりと残っていたことになる。小学校を建てたせいで、消滅してしまったのだろうけど残念。結構、城跡が学校の敷地になるってことがあるんだよね。現在日本でもっとも難攻不落の城、玉縄城(=清泉女学院)とか。攻略するには、結婚して娘を入学させるか、教員として就職するか。
2005年12月22日
●まだ原因と断定できないが。
やはりという事態。もちろん、トンネル工事が原因と確定したわけではない。1999年から工事が行われているので、「なんで今この時期に水枯れしたのか」ということが重要になる。「また」とあるように5月に水枯れして2回目だが、なんで再び水が沸き出して、またもや水枯れしたのか。水脈をぶち抜いてしまったのか。どうか。
しかし、失敗した。八王子城には一度いったのだが、悪天候だったし、ほかに同行者がいたしで、あまり良く回れなかったし、縄張りも把握できなかった。リベンジしようとしているうちに、水枯れしてしまうとは。
ウォームビズもいいけど、こういう環境問題はどうなの?環境大臣さん。「出世」だけは早いねえ。
2005年12月20日
●城の降雪対策は?
今年の冬は記録的な寒さだそうで、南関東を除き、日本列島各所で大雪に。雪景色の城というのも(もちろん近世城郭だけど)なかなか、風情のあるものなんだけど、度を過ぎると、こうやって壊れてしまうことも。コンクリ天守ならなんてこともないんだろうけど、なんてたって重要文化財の木造だから。
ただ、日々の管理というのも関わってくるんでしょう。もともと亀裂が入っていたと言うし。弘前城なんて、別に毎年あれだけの大雪でも漆喰がはがれたとか、その手の被害は聞かない。降雪対策といえば、雪の多い地方では屋根に積もった雪が溶けて染み込んで瓦が割れることを防ぐために、銅瓦であったり鉛瓦だったり、板葺きだったりするけど、そのほかになにかとっていたのだろうか。
2005年12月17日
●天下の隠居城なんだから。
今年の夏に駿府城に行ったときに一角が発掘調査のため、囲われていたのでおそらくあのあたりから出たのでしょう。考えてみれば、家康の隠居城で最期を迎えた城なんだから、もっと大事にされてしかるべきなんだけど、保存状態が悪い。たしかに、駿府公園は石垣で囲まれているけど、本丸と二の丸がどうなっているのか、まったく把握できない。
ちゃんと発掘して、堀を復元して、せめて本丸と二の丸がはっきりと分かるようにして欲しいもの。
2005年12月12日
●城ニュース2題
そういえば、普請小屋って残ってないなあ。当たり前だけど。建築現場の事務所と同じで、どこかのタイミングで撤去するんだろうけど、撤去したあとはそこに何か建てたのだろうか。建てたとすると、そのための普請小屋は・・・。なんか無限ループになりそう。
高知城は現存天守に加え、本丸御殿も現存するなど、本丸部分の現存度合いは全国でも屈指。本当は行きたいんだけど、まだ行けずじまい。遠いからねえ。松山城に丸亀城と見所はたくさん。ただ、いっぺんに見てまわるには交通の便が悪くて、結構日数がかかる。「四国行き!!」というと、「どうでしょう」じゃあ、罰ゲーム扱いだし。
2005年12月03日
●まあ、確かにそう略すかも。
「安土城屏風探し調査隊の帰国報告が行われ、伊東マンショの和服姿の肖像画が見つかった」
と、BBCが報じた。と言ってもびわ湖放送ですが。
ちょっとこれが書きたかった。
話を戻すと、ローマ法王の子孫の家を訪ねたところ、数年前に子孫の所蔵する本のなかから見つかったものを見せられたそうだ。これ自体も伊東マンショの和服姿の肖像画は初めてということでなかなか貴重なもの。今回の調査では安土城屏風は見つからなかったのだが、こういった発見があると言うことは、期待が持てる。
2005年11月26日
●皆川城
日本選手権準決勝に行く予定がなくなったからということで、代わりに皆川城見学会へ行く。
ぐぐっても、皆川城ゴルフカントリーばかりがヒットして、肝心の皆川城の紹介はほとんどヒットしないくらいの地味な城だが、実際に行って見ると、これがなかなか良く遺構の残った中世城郭。隠れた名城といってよいだろう。
最初に寄った金剛寺の住職がいろいろ説明してくれたのだが、頂いた資料のなかに「皆川本城と出城の位置」というものがあって、「敵が攻めてきたらのろしで知らせる」とあった。これはめっけもん。まあ、見通しとかいろいろ調べないと、のろしラインがあったかどうかはっきりといえないけど。
皆川城そのものは、麓から見ても西半分はフィールドアスレチックがある関係で、木が伐採されているから、郭の様子が良く分かる。登ってみても、堀も良く残り、郭もしっかりと分かる。本丸はというと、躑躅が植えられていて、せっかくの郭の状況が良く分からない。木も生い茂っているので、住職がくれた資料ののろしラインの資料の見通しもいまいち確認しずらい。
下山後白山台の出城を見て、皆川氏が最初に居を構えたという、東宮神社へ行く。こちらも、神社裏手のグランドが土塁で見事に囲まれていて、居館として機能していたことがうかがえる。
こんなに良質な遺構残った城が残っているなんて驚き。栃木県も史跡指定して保存に力を入れるべき。
来年8月の発表が正式に決まった。現在まとめている卒論をブラッシュアップさせてということになるのかな。なんだか、立て続けに決まるなあ。
2005年11月23日
●かなり参考になるニュース。
去年も書いたのろしリレーのニュース。去年のクリップが残っていたのだが、去年は31か所ということで、今年は38か所に増えた。発着点の長浜城も今年から参加。260キロを2時間近くかけて、琵琶湖一周というが、山陽新幹線開通時に、大阪-尾道間で行われた新幹線VSのろしの競争の結果とほぼ同じ。詳しいルートは見ていないが、だいたい、スピードはこんなものなんだろう。
ということで、川中島の合戦4回目に海津城から躑躅ヶ崎館まで160キロを2時間で伝えたという伝承もありえない話ではない。ということで、結構参考になるニュース。
ついでに、お約束のニュース。
安土城の屏風探し、ローマ法王に依頼 滋賀・安土町長
ローマ法王にもすっかり話が行っているようで。グレゴリオ13世の子孫にも会うそうだ。これで、訪問したら、「あっ、もしかしてこれじゃね」なんて、いとも簡単に出てきたり。
2005年11月20日
●新発見2題。
金沢城石垣の石工道具、明らかに 12種類、形状や用途詳細に 江戸前期の文書確認
『築城記』などはあるけど、これだけ細かい史料はそうそうあるものではないので、かなり貴重。金沢城の石垣だけでなく、近世城郭全般の石垣にもおおむね当てはまるだろうから、城郭研究にとっては大きい。
「政宗が晩年過ごした居城 若林城の遺構確認 仙台市教委」(河北新報社)
仙台刑務所の改築にあたっての発掘調査で発見とのことで、刑務所の下にそんな城があったとは。正直、伊達政宗が晩年住んでいた城があったこと自体初耳だった。
2005年11月17日
●確かに「大きい」ニュース。
中世宇土城 戦国時代最大級の竪堀跡見つかる(くまにちコム)
熊本県の宇土城で、大小5本の竪堀が発掘されたとのこと。最も大きいものは、幅10メートル、深さ2メートル、長さ70メートルというからかなりの規模。ここまで大きいと果たしてどの程度防御機能を有していたのだろうか。標高40メートル程度の城にこの規模の竪堀だと、本丸である千畳敷にまっしぐらという感じになりそう。手ごろな通路になってはしまわないのだろうか。復元創造図を見ても、本当に大きい。
また、城破のため墓石などで埋められていたというから、城破の点から見ても興味深い。
ちなみに、熊本城の宇土櫓はこの城の天守を移築したものという伝承もあるが、解体修理の際の調査によると、その可能性は無いとのこと。ただ、現存する建造物として、熊本城では天守よりもはるかに価値がある。3層5階だから、大きさだけで言えば姫路城、松本城に次ぐくらいか。弘前城も正確には御三階櫓だしね。昔は国宝だったけど、補強のために鉄筋を入れたから十分に格下げになって、さらに内部公開になたとか。
2005年11月15日
●もはや定番城ニュース
いよいよ現地に乗り込むそうだ。町長が言うように、城郭史のみならず日本史における最大の謎、最大のロマンの1つであるのは確か。ぜひ見つかって欲しい。
でもって、この手のニュースので、毎回言うように、実際に見つかったらなんのことはない下見張りの城だったらどうしよう。発見したのはいいけど、あまりに普通の城の絵だったので、調査団全員で、
「うん、見なかったことにしよう」
なんてことになったりして。
2005年11月13日
●ぼちぼち再調査を。というか全国調査を。
まだまだ悉皆調査は行われていたようで。たしかに、『都道府県別中世城館報告書集成』にも結構穴がある。なんてたって、東京都は出されていない。すでに調査から20年以上経っているところも多いので、データとして古くなっている。かといって、オフィシャルな調査としてここまでまとまっているのが、これしかないのも事実。ぼちぼち、再調査してくれないかな。
2005年10月30日
●城郭地区なんていかが?
鎌倉なんかも世界遺産登録では苦労しているらしい。ただ、彦根の場合もっとやりようがあると思う。佐和山城もあるわけだから、城郭都市みたいにね。安土城、観音寺城、近江八幡城と、近くには城もたくさんあるんだし、湖東地区として、売り出せばなんとかなるんじゃないかな。
なにより、世界遺産に登録されるためになにかをするんじゃなくて、史跡の保存整備をしていった結果、世界遺産に登録されたというようにならないと、いけないのでは?登録された時点でおしまいということになってしまう。
2005年10月24日
●一部と言わずに。
先月には聞いていましたが。
初めて行った小学生の頃は遊園地と動物園が所狭しとあって、それはそれは臭かった。はっきり言って、初めて行った記憶はそれだけ。最近はずいぶん撤去されて、すっきりはしてきたけど、まだ本丸に余計なものは無いほうがいい。地元の人には寂しいのかもしれないが、城ファンにとては朗報。
でも、一部なんだね。
2005年10月22日
●なかなか考えさせられる問題。
金沢城の復元された菱櫓の出窓の形状が違うとのこと。これはなかなか難しい問題。残されているさまざまな資料を使って、史実に基づく復元をしたはずである。ところが、新たな研究成果によって誤りがあったと判明したわけで、誤りを非難して良いものかどうか。新たな研究成果がいつ出るか分からないわけで、どこかでGOサインを出さなくてはいけない。
墨俣一夜城とか、トンデモ天守ならいざしらず、きちんと調査・研究の上で、当時としては史実に沿った復元である。記事には「今後の城復元のあり方に一石を投じそう」とあるが、どこで線引きをするのか、非常に難しい問題。
今現在復元整備中の熊本城にしてもひょっとしたら、新たな研究結果で、復元建造物に史実との相違が出るかもしれない。
「一生懸命検証しても、新事実の発見で覆るから復元は慎重に」
これを肝に銘じて復元事業を行う。それしかないだろう。
2005年10月21日
●獅子吼城
若神子城のあと、獅子吼城へ向かう。
こちらものろし台が復元されている。しかも、若神子城が「はねつるべ式」なのに対して、こちらは「煙突式」。のろしの里を標榜するだけあって、須玉町(当時)は芸が細かい。
若神子城とは打って変わって、整備がほとんどされていない。道に迷いそうで怖いくらい。と言うか、道がところどころ確認するのも困難なほど。本郭へ近づくにつれ石積みが残り、遺構がわかる。本郭へ着くとちょうど日が差し込んでスポットライトが当たるような感じで、のろし台が見える。近寄ってみると、木ではなくトタン板だった。がっかり。錆びたおかげで遠めには木製に見えるから曲者。
本郭もほとんど手が入っておらず、木もかなり生い茂っているのだが、のろし台のある南側の若神子城を臨む側と反対の信州峠側は木が伐採され開けており、なるほど眺望がきくのがわかる。武田氏の頃に伝えの城として機能していたということが十分うかがい知ることが出来る。須玉町教育委員会(当時)は、なかなかいい仕事をする。
帰りは根小屋神社まで歩いて下山したのだが、途中で持参したコンパスにお針がまわったまま一向に止まらず、まったく使い物にならなくなり、道に迷いそうになってあせった。追い討ちをかけるように携帯電話も圏外になったままだし。2万5000分の1地形図を持っていも方角が分からないとどうしようもない。しばらくして、川と道路が見えてきて、地形図上での位置が特定できた。
約束の時間よりかなり早めに下山したのだが、携帯電話が圏外のままだったので、待ち合わせ時間の繰り上げもできず、まわりを見てまわることに。ちなみに根小屋神社にある登城案内のルートは確認できなかった。
のろし台として名前は取り上げられることは多いのだが、城郭として実際に現地が紹介されることは非常に少なく、なかなか大変だった。
●若神子城
今日はお休み。
ということで、若神子城へ行く。はねつるべ式のろし台が復元されている城。
夏から何度も計画したのだが、どういうわけか予定を組んだ日に限って雨が降るという間の悪さで今日まで延びた。
日野春駅からタクシーで若神子城へ行く。
現在、若神子城はふるさと公園になっている。公園に入ると、小学生が所狭しと奇声を上げながら駆けずり回っている。どうやら課外活動のようだ。なにはともあれ復元されたのろし台のもとに。公園造成の際に櫓台跡が発掘されたことと『甲斐国誌』にのろし台伝承があることから、『和漢三才図会』のはねつるべ式を参考に復元されている。せっかくだから櫓台に登れればいいんだけれでも周囲にロープが張られ、残念ながら立ち入り禁止になっている。公園化されている部分は木もしっかり伐採されているので、見晴らしもいい。地図でさっと見た感じでは、獅子吼城を見通せないように感じたのだが、獅子吼城も見通せるようだ。ただ、櫓台と思われる柱跡が出土したのがここなのかは不明。
というか、「公園化されていて・・・」という情報は目にしていたが、公園の様子が分からなかったが、なるほど確かに城跡がつかめない。城域内の案内板に本郭から2つの薬研堀が出てきたとあるが、公園内に残っている薬研堀は、どう考えても二の郭にしか思われない。公園化というのも城址公園化芝で整地したものではなく、本当に広場にしてしまっている。これでは遺構がわからない。狼煙台が復元されている場所もすぐそばを堀が走っているように見えるので、二の郭の南端に思われるのだが、地形を見る限り本郭の腰郭にも見える。
ちなみに、最近挫折しっぱなしの「お城で昼飯を広げる」は好天に恵まれ、実現した。いちど麓に下りて、下から見上げて戻った後だったので、小学生が巣へ帰るのと入れ違いになって、落ち着いて食べられた。
日野春駅から乗ったタクシーの運転手が、「時間指定してくれれば、予約金とか無しで待ってる」ということで、タクシーの手配に悩むことなく獅子吼城へ向かう。
ぼちぼち待ち合わせの時間なので戻ろうとすると、今度は親子連れの集団が。やはり子供たちが駆け回り始めた。薬研堀に攻め込んできて、薬研堀を撮ろうしたら、そのなかの1人がど真ん中に写りこんだ。大きさのイメージをつかむにはちょうど良かったかな。タバコかい!
2005年10月17日
●初掲載
先日投稿した学会誌が刷り上って、家に届いた。
編集者であったことから、記名、無記名などいろいろな形で、自分の記事が活字となっているが、やはり自分の研究が載るというのは感慨もひとしお。2年前のGWに出された宿題をなんとか形にした程度で、しかも門外漢に近い古代ということで、掲載などはまったく考えていなかっただけになおさら。
というわけで、まだまだ内容的に未熟な部分も多いだろうし、読んだ方はお手柔らかにお願いします。
2005年10月16日
●田中城
吉田城をそうそうに後にして田中城へ向かう。
豊橋まつりのせいで、市電が詰まってしまい1本新幹線を逃す。その代わり、赤福を余裕はあったし、在来線で行くことになって新幹線代は浮いたし、乗り換えの浜松駅でうなぎ弁当は買えたしで、怪我の功名。
藤枝駅からバスでまず市立博物館へ向かう。バスの運運転手に博物館を通るか確認すると「?」な顔をしたので、蓮華寺と言ったら、「通ります」と。知らないもんなんだね。
市立博物館で今日まで開催の「田中城と城下町」をみる。(なんだか、ものすごい聞いたことのある名前)
博物館を見たあとで、田中城と下屋敷へ向かう。円郭式と呼ばれる独特の縄張りで、本丸を中心に同心円状に縄張りが広がっている。今では遺構はほとんど残っていないのだが、道はかつての縄張りの名残を残しているため、旧城域に入ると道がクランク状になっている。そのため、自分の位置感覚がさっぱり分からなくなり、すっかり迷ってしまい、下屋敷に行くまで手間取るは、何箇所か遺構を見落とすわと、消化不良に。まあそれだ理想的な縄張りだということは十分実感できた。
こういう地形に遺構のかつての縄張りの痕跡をとどめる城は十分下調べをすることの大切さを改めて実感。最近、計画するたびに天候不良で順延になっている(だから今回も学割の期限の関係もあって、吉田城と田中城になった)若神子城と獅子吼城が急に不安になってきた。
●吉田城リベンジ
日帰りで吉田城へ行く。
目的は豊橋市美術博物館で開催中の特別展「吉田城と城下町」と公開中の鉄櫓。で、豊橋駅に降り立つとものすごい賑わいぶり。どうやら、「豊橋まつりが」開催中で、市内全体がお祭りムード。市電もすし詰め状態。嫌な予感がしたのだが、ものの見事に的中で、吉田城のある豊橋公園がメイン会場で、出店はたくさんでるわで、すごい人、人、人。。。
人ごみを掻き分け豊橋市美術博物館に入ると、すごいね、豊橋市民は。来館者はほとんどいません。静かにゆっくりじっくり見られました。入館料800円と最近の博物館にしては割高(昨日のさいたま市立博物館はなんとタダ!!)だったけど、なかなか充実してました。館内で上映していた吉田城の紹介VTRを見ていたら、不思議なナレーションが。
「吉田城は背後に豊川を控えた後ろ堅固の城で・・・背水の陣となっている。ただし、後ろの豊川を渡って攻められると、本丸を直接攻められる弱点がある。・・・そのため、腰郭を設けて・・・」
んん?
後ろ堅固という以上、後ろから攻められることを弱点にするのは何か違うような。「ただし」とは言ってるけど、やはり表現として何か腑に落ちない。
「後ろ堅固な城であるが、それゆえ本丸まで攻められると、逃げ場が無い」
なら、分かるんだけど。
美術館を後にして、金柑丸跡をいくつか堀跡を上からのぞいて写真を撮って、いざ本丸へ。もうすごいです。なんだかよく分からない飾りがたくさん。(地元の小学生がつくったっぽい)前回も良く分からないイベント画会最中で、結局本丸全体をじっくり見ることは出来ず。
肝心の鉄櫓は、入場待ちの列が出来ていた。こっちは分かりやすいからね。さして待つことなくなかに入ることが出来たが、整理入場させるだけあって、中もかなり混雑していた。まあ、復興櫓だし、展示があるわけでもないんだけど。
結局、今回も公園内の遺構をじっくり見てまわることは出来ず、早々に退散することにした。
「豊橋ってほかに娯楽はないんかい」
と、悪態のひとつもつきたくなる混雑ぶりだった。
ということで、リベンジならず。
2005年10月15日
●吸収合併の副産物。
「戦国時代のさいたま~城と館からさぐる」の大宮会場にいく。
梅沢太久夫氏による講座「埼玉の城」を聞く。考古学出身ということで、縄張り研究派に対しては一家言あるようだ。氏の築城方による分類はなかなか興味深かった。縄張り研究派も同種の構造による分類をしている研究者もいるだろうが、アプローチがやはり違うのだろう。どのように地形を使い城郭にしたかに重点があって、虎口や土塁、堀切の組み合わせにこだわるのとは若干違う。ただ、腰越城タイプは「んん?」という感じがする。大手から本郭までの経路が明確に意図され配置されているとのことだが、ある程度の規模の城ならたいていが当てはまる気がする。
それにしても、たいした城郭も無いさいたま市がなんでこんな企画を?と思ったが、よく考えてみると、岩槻市を吸収合併したんだね。
しかしまあ、博物館が大きくないせいだろうが、大宮と浦和の分散開催は面倒。大宮は講座のついでに見たけど、浦和の方は寄れなかった。また改めて浦和に行かないと。
2005年10月08日
●命名にも基準を定めるべき。
山梨県の城館と伝えの城の分布を旧市町村名から新市町村名に置き換えてみた。郡をまたいでの合併とか、ややこしい。
そしてなにより、新市名がひどい。
甲州市、甲斐市、挙句に中央市。南アルプス市であれだけ非難をあびながら、よくもまあつけるなと。竹田市が出来なかっただけ、まだましなのか。
長野県は岐阜県と越境合併があるから、もっとややこしい。